昔の話だが難しい病気を祈って首尾がよかったりすると、他のケースでも「大丈夫ですよ。任せて下さい。」と言いたくなるものですが、そういうことを口にする時に限って全くよくならない。
判で押したようにほかのことも結果は出ない。
それでそういうことは言うもんじゃないなと思った。
ただ拝ませてもらうほか何もないなと思った。
いまでもそうだ。私自身が誇れるものなど何もない。
言ってみれば法の傀儡のようなものかもしれない。
でも考えてみればなんでもそうだろう。
医者は治療しても治るのは体自身の働きだ。
種をまいて丹精しても稔るは作物自身の働きだ。
いってみれば祈ると言ってもそんな程度が限界だ。
大分あとになって、霊狐さんから声がかかるようになってからも「お前のできるのは本当にせいぜい一寸一部の働きでしかないのだと知れ。わずかな験を鼻にかけて決して奢るでないぞ。」とたびたびキツク釘さされた。
最近ますます祈るという行為をするほかは私には何一つできることなどないのだと実感してわかってきた。
大分前だがある患者で二か月ばかり祈ったら「実は・・・ご祈祷達者だというある先生がいまして・・・、そちらに頼んでもいいでしょうか?」というので
「どうぞどうぞ。」というと「講員は止めませんので・・・」という。
「いやいや、それじゃ先方の先生に失礼ですよ。ご遠慮なく、どうぞやめてください。いい先生を紹介してもらってよかったですね。」ということで余所にいらしたが、それからすぐに亡くなった。
この人は民間医療術の人だったせいか末期癌ということをひた隠しにしていた。
亡くなって初めて癌だときいた。
私が祈っても最後は最終的には末期ガンはなおらず死んだろうが・・・焦るあまりあっちの先生こっちの先生と尋ねあるいたのだろう。
そういうことをして助かった人は聞かない。