映画「鬼滅の刃」は遊郭編の最後二話と刀鍛冶の里編の第一話
こうやってみると遊郭編の鬼である堕鬼と妓夫太郎は最下層の凄惨極まる生い立ちで育った兄妹だ。
それが鬼舞辻無惨の配下であるのは彼らに通用するものが力だけがものを言うという価値観があるからだろう。
そこに他のものはいらない。
だから鬼はいずれも力のみを誇り。弱いことを下げすむ。
妓夫太郎は傷ついた炭次郎を「みっともない」「みっともない」と嬉々として繰り返し嘲るのもそのためだろう。
無惨は十二鬼月を恐怖で支配する鬼の首領。
今回、下弦の六である堕姫と妓夫太郎を倒され、無惨に呼びだされた上弦の鬼たちはら「わずかでも人間らしい心が残ってれば、それは今後の邪魔だから極力捨てるよう」に厳命される。
そこに残るのは即ち、憎しみと恐怖の論理だ。
恐怖の根底には憎しみがあり、憎しみの奥には恐怖がある。
その構造が巧みに描かれている。
この物語中最も恐怖している存在は鬼舞辻無惨だ。
彼は肉体の衰退、老化を極力恐れる。
誰でも普通に起きることが彼には絶対受け容れられない。
そのためには人の血肉を喰らい昼間は太陽を避けて闇にひそむ鬼になっても、それを避けたいのが彼だ。
まあ、それを言えばたとえば自らの美貌を誇る人は男女問わず老いを恐れるのもそうしたものだろう。
要望が劣色得ること、年を取ることを極力回避しようとした権力者は多い。
そのためにはどんな無茶もする。水銀さえ飲む。
権力、財力、武力であらゆるものを手に入れられてもこれだけはどうにもならない。
だがすべてを手に入れた人間は最後の最後はそこに行きやすい。
同時に生き物であればそれは避けられな自然なことだ。
昔から言う「お前百までわしゃ九十九まで、いつも三月花のころ、使って減らない金千両 死んでも命があるように」というのはこのことだ。
それを考えれば本当は鬼舞辻無惨は鬼の首領とは言うものの意外とわかりやすい人間らしい赤裸々な存在なのかもしれない。