閻魔さんてどんな方だろうか。
裁判官としての閻魔さんがいるのでなんか地獄は監獄みたいに思うんですよね。
死んだ後にそういうところでえらく懲らしめられるから悪いことはしてはいけない。
そういう勧善懲悪の儒教的な感じはおそらく中国で加味されたんでしょう。
閻魔さんはインド神話で最初に亡くなった人類であの世の大先輩ということになっています。
でも中国的な監獄的な地獄の発想はどうだろうか。
私が思うには大きな間違いで仏教の根本と相反します。
以前こんな話があった。
地獄の溶銅熱鉄の池が変じて浄土の蓮池となる宝筐印陀羅尼の功徳の話をしたとき、
「先生、それってまずくないですか?そもそも地獄に落ちる人は落ちるような悪いことしたから苦しめられているんでしょ。それを助けちゃうのはフェアじゃないんでは。」という質問。
地獄を監獄と思えばそうなる。陀羅尼を唱えるのは脱獄の手助けみたいにその人は思ったのでしょう。
仏教には悪因悪果 善因善果の考えはあります。
しかし、それは懲らしめれば人は反省して立ち直れるという考えではないのです。
この世でも何度監獄に入っても同じ犯罪をする人はいる。
地獄の業が尽きれば必ずしも晴れて普通になるわけでない。
人間はどこまでも業の深い迷いの存在。仏教は必ずしも痛い目に合えば人は悪から離れられるとは思っていない。
地獄は因果により自らの業が招くところであって刑罰でもないし、正義のためにあるわけでもない。
人間の罪悪感が生み出した世界です。
だから地獄に行ってもお互いはいないのと一緒。ただひとりで延々と絶え間なく恐ろしい悪夢を見つづけてもがくに等しい。
鬼や牛頭馬頭の獄卒もすべて心の作るところです。火の山や針の山、血の池も同じでしょう。それが地獄。
それらは霊狐さんから聞きました。
じゃあ閻魔さんてどういう存在なのでしょうか?
霊狐さんが言うには
「閻魔天の本地は地蔵だと知っているだろう。
閻魔天はもともと地獄でも地蔵菩薩で救済者なのだ。
だが罪の深い人間は自分が地蔵菩薩の慈悲などにあずかれるとは思っていない。
ゆえに地獄の衆生には地蔵菩薩が閻魔王に見えるのだ。
亡者は閻魔王や獄卒を見て罪悪感が吹き飛ぶほど驚き恐怖する。そうして苦しみ恐れ・・・
苦しみのなかからも疑問に思い、もう自分を許そうとしたときが地獄から出る時だ。
そのなかから罪業も本来空と悟ればその時初めて閻魔が地蔵菩薩に見えるのだ。閻魔は亡者が目覚めるよう地獄の修業を助ける存在なのだ。」
※チベットの閻魔王 「ヤマ」
このヤマ尊のアンチとしてチベットでは「ヤマンタカ」という尊格が存在する。
一種の破地獄思想だ。ヤマンタカは日本で大徳明王にあたる。
ちなみに極端に罪悪感の欠如した狂ったような犯罪者などは地獄でなく魔道に落ちるそうです。
だが人は人である以上はどんなに落ちてもある意味「正しい」ということからは完全にはなれることはない。
たとえヒットラーでもスターリンでも彼らなりの正しいはあったのでしょう。
悪人ほどそれは限定的で狭い範囲になります。
アメリカの禁酒法時代の悪党として名高いマフィアの首領 アル・カポネは「俺は悪く言われているがこんなに善人なのだ」と本気で語ったという。
犯罪者はこの犯罪をしてもいいと許可しているわけで悪の観念がないわけではない。
一抹の善。それが闇の中も木漏れ日のようなものであれ、
そこがまた三悪道の境涯からも抜け出る一因であるのでしょう。