いろいろな法があって興味深いのも密教の特徴です。
私なんかもそれが好きで密教に入った。
個人的には鎌倉仏教にはあんまり興味がわかなかった。
昔、さる真言宗の大徳が若いころに、密教にこんなにたくさんほとけがあるのは乱立じゃないか。
大日如来のみでいい筈ということで断固諸仏廃絶論を書いた。
発表しようとしたらその前の日に原稿も寺ごと火災で燃えてしまった。
偉いのはそれでその方は悟られた。
自分のお考えが仏意にかなっていないとんでもない間違いだったことを!
だから密教は何様が一番とかは本当の意味ではない。
その人その人でアクセスしやすい仏は違っていいのだ。
人の数だけ仏がいる。本当はそれからいうなら足らないくらいだ。
で、諸尊法というものがある。
だが、同時に沢山の御仏の拝み方を知っていると迷うこともある。
病は薬師様?観音様じゃダメなのかとか。疫病なら摩旦利法じゃ無いとダメ?
良縁はお愛染明王さんじゃないと祈れないのかとか。
商売は弁天?大黒天?毘沙門天?はたまた聖天様?
どれがいい?
人間、選択は多いほど迷うらしい。
諸尊法はそのヴァリエーションを残すために伝法をもっぱらとする阿闍梨には絶対必要な法だが、同時に受者は選択すべきで全部拝む必要なんかない。
法多きを喜ばず。
一尊即諸尊 諸尊即一尊の考えに基づいて軽々に本尊を捨てて迷うなかれ。