灌頂は密教の至極です。
それ自体は四大海の水をあつめて瓶に入れ頭にそそぐインドの王の即位式にもしたものですが、これで受者は仏の位に上る。
だから仏さまとしての名前もいただきます。
大体おおまかには三つある。
在家が縁を結ぶ結縁灌頂
これは諸大寺で時々やりますね
弟子に諸尊の印真言をさずける受明灌頂
これはお授けの時にする伝授作法も広くはこれに類します。
密教のマスターとして仕上げをする伝法灌頂
終われば阿闍梨さんです。密教的にはここを終わらな伝授やお葬式はできない。
要するに弔われる死者はこの方の仏弟子になるのです。
※三井寺で言う受明灌頂は金胎両部の秘印を授け内容的には他流の伝法灌頂に類しますが、三井の場合に限り蘇悉地灌頂を終えないと伝法灌頂を受けたとは言わない。
※ 三井寺 護法善神堂前
これは儀式としては一日から三日程度で終わるので難行苦行の類ではないけど内容はきわめて深遠なもの。
つぶさに語ることは許されないものです。
これをいい加減に担当者がする発言をしたため、加行までしてここに至り即座にやめた方もいる。
信仰ある人はそういうものです。
灌頂をうけないことことによってそれを冒涜することを避けたと言ってよい。
本当の仏道の心でしょう。
ただそういうときも担当者を罵らず、おのれの機縁が至らなかったのだと思う者はさらに真実の仏道を知るものです。
密教の僧侶ならだれでも修行すればそこに至れるように思うけど実は稀有の思いがなくてはいけない。
本当は稀有な中にも稀有なことです。
在俗の方の結縁灌頂でもそこは変わりません。
そこを理解しないで灌頂の機会を得てもそこに信を置かないものは何も得ないのと同じです。
たとえあなたが密教僧でいらして灌頂壇にすんなり入壇なされたとしても簡単ではない。仏縁の所作です。尊いが上にも尊いことです。合掌。