金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

霊感に共通了解はいらない

スピリチュアル系の方が見えた。

日頃、わたしは口を極めてスピ系の批判を言っているのによく見えたと思う。

 

もっぱら霊写真をとる方だそうだ。目下はプロの心霊活動はしていないらしい。

だがフォロアーが数千人いる。

まあ、それだけ世間が納得のいくものは提供されているのだと思う。

 

ちなみに蔵王権現が写っているというのを見せていただいたが私にはわからなかった。

 

だが、だからダメというつもりはない。

そうした霊的な感覚を持たないわたしにはわからないだけのことかもしれない。

霊感の基本は主観の世界だ。余人にはわからない。

本人が蔵王権現だと言うならそれで十分だ。否定も肯定もいらない。

 

 

例えば富士山を描いた絵も片岡球子画伯と横山大観画伯ではまるきり違う。

だがどっちが本当はない。

そのようなものだ。霊能者同士でもみな違う。

共通了解などいらないのが本来だ。

絵画も共通了解が大事という場面なら写真でいい筈だ。

 

心霊写真も自分がこれは神霊が写っていると感じるならそれでいい。

人の了解なんか必要だろうか?

 

その人がそうだと感じることに私は口出しできない。

否定はできない。

その人の体験だからだ。

だからこそ共有もできないというのが私の気持ちだ。

心霊問題はお断りとはそういうことだ。嫌いだからではない。

嫌いなのは無理に共有をせまろうとするわけのわからない人間だ。

 

以前、話を聞いてもらいたいという講員さんがいて、お金をあげたホームレスのおじいさんについていったら見失っていつのまにか如意輪観音堂の前に出たという話をされた。

「で、それで?」と聞いたらととたんに「もう、いいです!」と機嫌を損ねられた。

つまるところその老人が観音の化身だと共有してほしかったようだ。

この人の優しさをためすために観音がホームレスのお爺さんに化身したんだという解釈を言えばよかったんだろうか?

 

そんなのは絶対無理だ。私には。

 

その人はやがてやめて去ることになった、去って本当に良かったと思う。

本人のためにもここはいるところではない。

拙寺はそういう考えの人はただ心が傷つくだけの意味のない場所だ。