金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

宗教ビジネスと清貧について

最近は素人同然のというか、素人以下の人間がお金で宗教法人を買って総本山とか大本山とか言っているのもあるらしい。法友から聞いて今更のように呆れた。

また、そういうところでも金に任せて豪華な荘厳をしているので空r人もそれに誤魔化されてマトモなというか、大した大寺だと思うようだ。

またもっとよくないのはいっぱしの本山の人とお金でつながりその看板も利用する。

お金のない本山のステージの高い僧も多いので内心は大喜びの人もあるとか。

いやはやなんともである。

 

この間、講員さんから「先生は今よりもっと上とかも考えなかったのですか?」と聞かれていささか驚いたが、この人の言う「上」ってなんだろうか?

改めて思うに私には「上」といえば成道とか、境地がすすむとかそういうことしかうかばない。

物質的成功は勿論きらいではないが考えたことはない。きれいごとなどいいたくもない。

 

そもそも私ははじめ街の片隅で祈願ができればそれでいいと思っていた。

それが私の限界なのだと考えていた。いまでもそう思う。

 

以前、携帯電話のアプリで私の星占いを使いたいという提案がある会社からあったが蹴った。

「なぜです?もうかりますよ。」といわれたが、理由はそういうことはさだめて災いの糸口になるからだ。金欲しさにそういうことをすれば道から離れる。道から離れれば果ては守護神霊は必ず離れる。

そのほうが私には大打撃だ。損得でいうなら大きな「損」だから選ばない。

 

昔、高校生のころ、こんなことがあった。親が突然、高級なレストランに連れて行ってくれたのだ。

そのわけを母がかたってくれた。

「お前は生涯、こういった一流のレストランには来られないろう。だからなんかの折、こういう場所にきて気後れしたらみっともないから一遍つれてきてやったのだ。よく憶えておけ。」ということだった。

無力で甲斐性もないであろう息子を憐れんでくれたわけだ。

その時は「そういっているがいい!今に目にものみせてくれる」とは思った。

はたしてその位の店なら行かれなくはない。まあ、でもその程度がせいぜいだ。

一応はそうなっているので喜んでいる。

規模的にはもっと下を考えていた。ハッキリ言えば生活さえできるならそれでいいと思っていたので存外の喜びだ。

 

決して怠けてきたわけではない。むしろ生き残るために、他のことは一切考えないで必死でここまで来たからペースが止まらない。いまでも休みらしい休みなどない。

今でも早朝からこれを書いている。

思うに先ほど言ったように私の親は「そんな仕事ではお前はロクに生活できないだろう。」と思い込んでモノを言われてきたからだろうか。

だから絶えず働かないと不安なのかもしれない。まあ、アリのようなもんだ。

 

言っておくが欲がないのではない。清貧などまっぴらごめんだ。

父は事業をしていたがたびたび不渡の危機もあり、お金がないということが実際どれほど凄惨なことかは見てきたつもりだ。

浄く貧しくはまったくひとりで世捨て人ならありうるが家族があるならあり得ない。

家族があるのにお金には関心はないというのは無責任で罪悪の甚だしいものだ。

それならはじめから一人で生きることだ。

だから行者になるということを家族のある人にはすすめない。

清貧でなくてもただの貧乏にはなるかもしれないからだ。

 

そもそも清貧などというのは無駄のない生活を言うので貧しいわけではないだろう。

生活が成り立つうえでのつつましさでしかない。むしろそんなものは余裕の産物だと思っている。(笑)

 

話を戻すが私は欲がないのでなく欲をかくほどの器でないと知っているだけである。

そういう大きな財や名声への望みは分不相応であるから禍になると思っているだけだ。

そんなものだ。

だが、そもそも金や地位を考えて宗教家になること自体が大きな間違いだろうとは思う。

それはただの宗教ビジネスでしかない。

収入が欲しいので行者になりたいとうっかり口にした人がいたが、そういう人に少なくとも密教などは永遠に指導しないし、坊さんの道で生きていくことも手助けできない。

宗教でも収入は必要だが断じて目的ではありえない。

そういうものではないでしょうよ。