金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

名医とウナギのタレのお話


私の弟子で看護師されていた人がいて、その方が言うには医者の世界では俗に「治すのが名医ではなく、治るのが名医」というそうです。
もっと進んで「治る人が来るのが名医」ともいえるらしい。
つまり名医と呼ばれる人のところには病気が治るようなプラスの途上にある患者さんがやってくる。
むろん、ただ治ると決まっている人たちが来て、そうなるわけじゃなくて医者が「何か」を加えることによってそっちに動き出すんですね。
内包されている良いものが…。
そういう仕組みだと思うんです。
だから非情なようだけどいわゆる名医ほど手を付けてはいけない無理なレヴェルはハッキリ言うらしい。「治療は無理だと」

これって御祈祷も同じだと思いますね。
良くなるベクトルの人が集まりだす道場はそこにシナジ―効果(相乗効果)が起きてくるんだと思う。
で、どんどんよくなる。
それでかつ、まず無理とか、できなさそうなご祈願は無理してやらないことが多い。
うちの場合は難しそうでも講員さんサイドの祈願はやりますけどね。
その理由は・・・私が結果出すわけじゃないから。
でも非常識な祈願とか道理に合わないのはしません。

昔から「稲荷巨人」というのがある。
どこだかのお稲荷さんがご利益があると言うと江戸の人はどっと押し寄せたそうです。
それでどんどん大きくなることを言う。
でも大概ほったらかし何でそのうちまた元のさびれた御社になるという仕組み。花火みたいなもの。
でも、そこにこのシナジー効果を維持発展できる宗教者が介在すればさらにおおきくなる。
勝れた宗教家や行者さんと言っても人間がやることだからそんな極端には違いはないと思うんです。だからいくら凄くても、神通広大でも行者さんの祈る力とかだけじゃないですね。
そこに差異が出るのは。

大事なのは一個の行者がどれだけパワフルかより、どれだけ良いベクトルの人を多く集められるかです。
それによってよいフィールドが展開すれば「あそこはよくご祈願が叶う」と言われるような、そんな仕組みだと思うんですね。

見ていてそう思う。
つまり行者個人から場にまでシフトして初めて本尊の力は全開になる。
だから祈りの場は大事です。
本尊を崇敬する宗教というレヴェルまでになるのか、個人の祈祷師なのかの違いはそこ。
見ていると本尊にシフトできない個人の請負祈祷師はやがて擦り切れていく宿命になります。
「祭礼は大事だよ」と言ってやってもそこがわからない。
だからレヴェルは変わらない。生長しないんですね。
そういうやり方は本人がどんなにサイキックでもテレパスでも本尊にバトンタッチできないとそこどまり。
まあ、御本人が「私が本尊的」なそういうやり方がお好きで、それが良ければかまわないけどね。
どうでもいい。
よそ様のことは私の知ったことじゃないので。

だからうちでも「先生がいないと…」と言って祭礼に来る予定が、私がいないと確認してこなくなるような人はそこは全然わかっていないんだね。
本尊じゃなく私信仰…それって嬉しいんじゃなく、おおきな迷惑です。
私の中ではそういう方は気づきのない「わからん人グループ」に入れて考えてます。そういう方々は努めて本尊にシフトしていただく所存。
私ってタダの人なので。
なんも、できんわ。
お祈りするほかは。

極端に同情型の行者さんは駄目ですね。
同情するということは不幸にフォーカスしすぎる。
つまり不幸な人に囲まれている。その中の宗教者というイメージ。
なんか悲壮な覚悟みたいのがある。慈悲は智がないと本当の慈悲にならない。害になることすらある。
そういうのはいらないんですね。
本当に良くしたいと思うなら。
でも、これやると自分も相手も不幸の磁場から一歩も出られない。
そういう出られない人ばかりに集まってはよいフィールドが何時まで経ってもできません。
イメージとしては。、スラム街の天使や地獄で仏のお地蔵様みたいですが・・・お地蔵様には実は伽羅陀山浄土というお浄土がありまして、そこから毎日晨朝に地獄においでになる。
四六時中、地獄にいらっしゃる訳ではないんですね。

では「常に不幸と戦う行者」のイメージはなぜ人が助かりにくいのか。
それはなぜ?
不幸な人を救うには「不幸な人」が必要だからです。
これが前提。
貧しい農民のために戦うロビンフッドの話は貧しい農民は常に必要なんですね。
貧しい農民は助けてあげても貧しい農民から脱却困難です。
だからロビンフッドはどこまでも戦わないといけない。
同じく、不幸と戦う行者は信徒さんがずっと不幸でいないと使命が果たせない。
不幸な人を助けたいという心自体は大変良いのですが、ここの観念が少々間違っていだけでと逆に呪縛になる。
「あなたは良くなっては困ります。だって私は不幸な人のために活躍しないといけないんだから。」という皮肉な構造になる。
ロビンフッドのお芝居をやるには、悪い領主に苦しめられている民百姓は必要な配役です。欠かせない。
無論当人はそこは気づいていない。気づいていればその観念を捨てられる。

変な話だけど、正直まず運のよい人が集まらないと祈願所は駄目。
有名ウナギ店の秘伝のタレと一緒。先にうまいタレがあれば、そこに醤油だ、砂糖だの適当に放り込んでも同化して美味しいタレになる。
でも先にあるタレがまずいとその逆ですね。