羽田談
私のように聖天さまを拝む立場でもどうにもならないことはたくさんある。長年解決できないこともある。
だがその解決できないことが信仰の頸木である。
解決できない難題をどう考え、どう生きるかにその人、その人の信仰のかたちが生きてくる。
そういう難問題は見方を変えるなら実は信仰の友だともいえよう。
その問題が「鬼教官」となって信仰を鍛え缶上げさせてくれるのだ。
ただ「拝んで色々叶って幸せ!」というのも結構だが、それは信仰の目的ではない。
どんな幸せも生老病死の四苦の前には色あせる
そんなことだけで生きていけるなら仏教の「教」はいらないのだ。