前述の大森先生のブログ
を拝読して
厳しい霊障があってもそれをよすがに、懺悔して正しい信心にはいることもできる。
逆に断見に堕して。ただただ被害者としての自分しか見いだせねば、たまたま障礙を除いてもまた形を変えその人の人生の災いになる。
霊障とは業のすがたの一つであるからだ。
仏教のとらえ方はそれである。
ほかにはない。
ゆえに時々霊障を何とかしてほしいと言われるが、そこに多くの場合、自己流の解釈を入れ、それに基づいて何とかせよという要求が多い。
だが、我見をほしいままに自らが変わらずに、問題のみが何とかなることはないだろう。
まずこれを理解しなくては次のステップはないといえよう。
仏教には信仰の門に立とうとしないものにできることは基本的に何もない。