方々で全く同じ祈願を頼みまくる人いますがこれは通常かえって祈願は叶わないことが多いものです。
なぜだろう?なるべき多くの神仏に応援してもらいたいということなのでしょうけど・・・それでもメインは決めないといけない。
それは当の自分の信仰が散漫になるからです。
だから、拙寺ではよその霊場で拝んでもらっているんですが拙寺でも拝んでほしいというのは原則お断りしています。
心願は必ず自分の心を通して神仏に届く。
それが絶えずもっといいところ来ないだろうか?もっと御利益ある神様はないかと言うようでは届くわけないのです。
信仰には覚悟がいるんですね。
私の場合はかなわないというだけの理由ならそっちは止めてうちにしなさいとは決して言いません。
うちで祈願するのはやめておくのがいいと言っています。従来の叶わないというその信仰を大事にしなさい。
答えはそこにある。
叶わないのは叶わないだけの理由があるのです。
だから一生懸命信仰もし、拝むところでもしっかり拝んでもらって叶わないのは大抵霊場を変えても同じです。
叶わないのが答えです。
そこに気が付かないといけないのに問題は神仏にあるのだと思うその心がもうすでに信仰のこころではない。
叶わない心願を見据えるのは信仰の上で大事です。
その祈願がかなえばどうなる?あなたはどうする?
その祈願が叶わないことが何かの役に立っていないか…考えるのもいいかもしれない。