よく現世利益を馬鹿にする人がいるが宗教は全ては現世利益から始まるのだ。
現世利益を説かないものはありえない。
この世に生きるための宗教だ。
そこにすべてがある。
たとえ浄土信仰だってこの世の我々を何も利益しないならそれはニセモノだ。
仏教ではないがアフリカで天国に行こうと餓死した宗教がある。
こんなものは宗教としての基本がない。無価値だ。
ガッツリこの世を生きるのに役に立たないならどんな高尚な教えでも私自身興味はゼロだ。
だから祈って良い。求めてよい。
祈るだけ祈ったらいい。
人生、祈ることで答えが出る。そこにほとけの声がある。
その声を聞いたら自ずとその祈りも洗練されていくだろう。
大事なことそれだ。
「祈りの向上」
それが菩薩の心を培う。次第に己れだけの欲願は減っていくのが菩薩道だ。
だが、自分も含め衆生利益の心はますます大きくなる。これも欲だ。菩薩の欲だ。
仏の欲だ。
欲を断つ!?
無用の欲を断つことは必要だ。祈りの目的のために。
だがすべての欲を断つことがうらやましければ廃人と変わらないのではないか。
どこで何を聞いてきたか知らないが、おじおじと「お願い事っていけないんですよね?」という人がいた。
講員ではないが良く来ていた人だ。
「ここはお願い事の道場ですよ。お願事はいけないことなら来ても無意味でしょう。あなたはなにしにきているんですか?」
お願い事がいけないのではない。
いけない願い事があるだけだ。
仏に祈るか神に祈るか、祈らないかはさておきお願いごとのない人間というのはいない。
願うことと生きていることと一つだ。