あるお寺の先代のお話、
聖天信仰は5年がヤマだという。そこでやめてしまうひとも少なくないらしい。
それはなぜなのかを話したいと思う。
聖天信仰。最近なんかご利益がうすくなってきた感じがするという時。
それは貴方の側が進化していないからだ。
祈願料を払っていればよいというものではない。
そこはお買い物と違う。
そこ勘ちがいしている人が多いね。
それでもっと上のご祈祷とか言う人もいるけど、そうじゃない。それは転換期なんだね。
もう成長しないといけないという時期だ。
どういう成長か
もらう側から与える側への成長だ。
自分もその能力に応じてほどこす時が来たのだ。
必ずしも、寺に大きいお布施しろとか言う話じゃない。
能力に応じてお金でなくてもいい。なんでもいい。
人にベクトルを向けろということだ。
信仰というもの自体は祈願料などでは済まない。いくらつもうが代用できない。
そうではないのだ。
進歩しないといけないということ。
そうでないといつの日か、聖天尊は「・・・こやつ、いつまでたってもわからぬ奴。もう嫌だ。きらいだ!」と言われる。
こうなったら泣こうがわめこうが。首釣ろうが天尊は慈悲を捨てて見殺しになさる。
いくら祈祷しても御納受ならない。「そのようなものは受けぬぞ!」ということになる。
そこは実に恐ろしい。
特にいつまでも欲望ギラギラでビジネスライクな人はこの段階でしまいにはみはなされる。
自分の立場で菩提を求め、自分の立場で衆生利益を考える。
そこがまるきりアタマから飛んでいる人はいつか見放されること100パーセントだ。
進歩のない人を聖天様は好まない。
それを悟らぬものはそこをもって「聖天の祟り」という。
今まで聖天尊を甘い菓子や大根、酒などを絶やさず供えて喜ばせておけばいい。そうやって供養し浴油のいいのを頼んで置けば、尊天は喜んでホイホイなんでもする低次の神だと侮っていたひとは、ここでとりかえしがつかなくなる。
そんな人の末路は一杯見てきた。だからもう見たくから講員制なのだ。
「仏教の話なんかはどうでもいいから拝めよ」というようなマジカル一辺倒で自己を見つめることのない人間は排除しないとしまいにそうなるのだ。