昔から商家などで聖天信仰している家で栄えていくのは必ずと言っていいほど先祖をあつく供養しています。施餓鬼なども必ず致します。
ところがこれと真逆で祈願となると甚だ熱心だは供養は全然しないという人がいます。
拙寺はメインは葬儀や供養の寺でなく祈祷の寺です。
ですから何も当院で供養はしなくても菩提寺でしっかりすればそれでいいのですが、とにかく供養は大事です。
いくら聖天尊に祈願しても介在するのは「先祖霊」そして「日本の神祇」氏神です。
祈願は欲すること。
供養は与えること。
祈願だけなら我利我利亡者でも信仰熱心に見えますね。これは貪欲の人。
逆に供養ばかり、与えるばかりで祈願することにためらうのは罪悪感のとりこになっている誤った考えの人です。これは愚痴の人。
貪欲の人は自分の代は栄ても次の代に必ずしわ寄せがきてよいことはありません。
七代の福を一代に取ると言われる聖天信仰はそこに起因する。
悪いのは聖天信仰ではなく貪欲の人です。
聖天信仰している当代の人は良くても後の子孫七代は貧困に陥ると言いますが。これは欲しいばかりで施さない人の末路なのです。
自分の先祖にさえ施さない人に感謝などあるわけがないのです。
そういう人は最後には天尊からも見放されます。
たとえ山海の珍味はもとより金殿玉樓を奉納してもすべきことをしないでは代用になりません。
福徳を長く保つには供養が大事です。