毘沙門天は日に三度有り余る宝物を焼くという。
これは何を意味するか。
神仏の側に不足というものはないということだ。
不足なのは我々のはき違え、間違いだ。
その第一が交換条件。
神仏に何かをしてあげて変わりは求められない。
祈願も同じだ。
たち物、百度参りも、日参も同じだ。
いつの間にか「わたしはこんなにした」とか言う話になっていないか。
何をするかより何のためにしたかが大事だ。
曲った根性で真言100万遍唱えても無駄だ。
神仏には醜い喘ぎにしか聞こえない。
第二は神仏は私たちの声や手の届かぬところにいるという思いだ。
これも大きな間違いだ。すぐそばにいる。
なぜなら、神仏は私たちの信仰のうちにしかいないからなのだ。
ほかのどこにもいないのだ。
架空の存在ではない。だが、信仰無き者にはいないも同然だ。