武術の師であったN先生は手技療法が得意だったが、かなりプライドの高い方だった。
可なり口は悪い!そしてそういう時はしゃべり口調は江戸風のべらんめえ的
ある時、無理なことを言って、見せ金のようなことをする人が「このとおり、うちはお金はありますからね」とひとこといったら
「何を言いやがる!カネはてめえのだろう、技は俺のだ。
誰がてめえなんぞやるか!ふざけんな。とっとと金持って帰りやがれ。」と追い出した。
これは確かに失礼だ。
教養のない金持ちは悲しいがそういうものだ。
うちもそういう「お金持ち」は来てもらいたくない。
大きな話や金出せばホイホイなんでも喜んでやると思っている。
お金は勿論有難いけどそんな人間と付き合うのはそれ以上に嫌だからまっぴらだ。
これはかなり前の話だが紹介もない、義理もなければ、面識もないのに「一番上の浴油で御祈祷してくれ」と言うので、「ああ、講員でない方は聖天様はしてません。ほかはみな一律の御祈願しかないですよ」言ったことがある。
聞いたらこの方は古くから聖天信仰していると言う。
どこでもするのなら一番いい御祈願しかしないという。「聖天様を祈るならばそういうものだ」という説教までしてくれた。
アリガタイ話だが、長年の信徒ならもう少しことがわかりそうなモノだ。
こういう偉そうな人は他人にあれこれ指示されるの大嫌いだから、講員限定と言ってもそこをおれて是非とも講員にしてくれとはまず、言ってこない。
それでいいのだ。
そんなことで人を優遇したら寺全体が変なものになる。私が大切なのはお金なんかより寺と言う存在だ。
「じゃ付き合いで一年だけ」と言った人がいたが「そういう信仰はうちにはありませんからお断りします。」と言って断った。
不満ならどなたも「それではうちでは間に合いませんね。どうぞ、お余所へお願いいたします」としか言えない。うちの在り方は変えない方針だ。
昔々、だれもが知る大きな会社を経営する人が突然、私の師匠を尋ねてきて「今すぐに浴油してくれ」と言ったら「浴油はいきなり、いわれてできるもんじゃない。次の御祈祷でないと。」と断ったら憤然と帰って行ったそうだ。
師の話に行者のあり方を見せられた思いだった。
仏典では有徳の金満家は「長者」といわれているが、長者はなかなかいないものだ。
信仰には誰であれ「謙虚」さは欠かせない。