金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

無願三昧

無願三昧と云う言葉があります。文字通りなにも願わない三昧です。
普通人は普通祈願のために一生懸命お経や真言を唱えますがこの時、これを何とかして叶えてほしいとしつこいくらい願いを念じて拝みます。
これをしないのが無願三昧です。
ただただ本尊を念じるのみです。
やってみると判りますが、はじめのうちはなんだか願いを聞いてもらえないような感じでどうしても願いを念じながらやりそうな感じがしてきます。
しかし、これは本当は裏を返せば不信感から来ているのです
。普通のイメージでは一生懸命祈ると云うのは、この願いを強烈に念じて本尊を拝み倒すようなことを言うのでしょうが、しかしそんなことをしても別段の効果はありません。
あるとすれば祈るごとに焦りや不信感が増長するだけです。
これに対して本尊にすべて預けてただただ本尊を念じるということで格段にレベルの違う祈りになります。
「どうか特別に念入りに一生懸命、お祈りしてくださいね。頼みましたよ!」といわれて「わかりました。」とはいいますが私はどの祈願も本尊に問題を預けて淡々とやるのみです。
いわゆる念力込めるなどということは致しません。
世間でいういわゆる行者さんとは歯をかみしめはったと眼を怒らして腹から声搾って祈るものと思っているらしいですが、密教行者にはそれは必要無いと思います。
そういうことはもう自行で終えておかないといけません。

勿論、御施主さんお祈願の趣旨は本尊に申し上げるのですが、後はただただ本尊と御施主さんを加持融合させていくだけです。それが上手く行けばオーケーです。だから断食して祈るとか、ギリギリ歯を食いしばってとかも一切やりません。
拝む前に水をあびますがまあ気合いを入れるだけのことです。これもシャキッとして御祈祷モードに入れればそれでいいだけで寒い思いをするのが目的ではありません。「摩訶止観」にある通り道場が寒ければ暖め、熱いなら涼しくします。
ようするになるべく不快さのないようにします。余計な思いがあってはいけないということです。
ですから御祈祷はまず健康が一番大事です
。日ごろから自分が痛いとか苦しいとか言ってゐては良い御祈祷にはなりません。
こういうと人によっては「では漫然としてタラタラやっているだけなのか」と思うかもしれませんが実は決してそうはならないのです。
自然と高揚してきて真言や読経の声が大きく強くなったり、早くなったりあるいはほとんど無言になったり、ゆっくりになったり、それで結果それにふさわしい念誦ができてきます。
上手く行った御祈祷は苦しいのではなくとても気持ちがいいものです。全く苦行ではありません。逆に苦しいようではまずその祈願の結果は駄目です。
これはその祈願自体が叶わない以前に間違いだと云う場合もあります。

祈願は自分の祈りや施主の祈りでおわるのではなくその祈りを最終的には本尊の祈りにしなくては叶いません。
もしそうならないのならそれは本尊がその祈願に対して「No」を出しているのだということですからどこかしらに問題があるのです。
全てはもう本尊の徳の内にあるのですから肩におもいきり力のの入った御祈りなどは本当は全然いらないのです。
これは行者でなくても信者でも全く同じことだと思います。
皆さんもひとつ無願三昧モードでお祈りしてみてはいかがでしょうか?