このお話はかなり昔で十年以上も前のことですがある信者さんのご姉妹の結婚を月々お祈りしたことがあります。聖天様でお祈りしてさいわいほどなく良い御縁に預かりました。親御さんも大変喜んで日ならずしてお礼参りに来られました。
「この度は本当にありがとうございます、先生のおかげ、ご本尊様のおかげです。娘も大変喜んでいます。」とのこと。そして「実は教会で式を挙げるのですが、普通はしてもらえないのに特別に七日間なんだかをしに教会にかようとオーケーなんですって!本当に良かったです。」と喜々として語られました。
そこで「クリスチャンの方と結婚するのですか」と聞いてみたら違うとのこと。お相手でなく娘さんが教会婚が雰囲気が素敵だというのでそう選ばれたようです。
「それはよかったですね!、、、でもそれならもう二度とここへはお出でにならないでくださいね。」というと「エ!どうしてですか?」と大変驚かれました。
皆さんは私がなぜこういったかわかりますか?
その方は判らなかったようなので訳を説明いたしました。
「貴方も娘さんも聖天様の御陰と云うけど、それならなぜキリスト教で挙式をされるのですか?クリスチャンでもないのにキリスト教の神様に生涯の愛を誓う理由は何でしょう。あなたは観音さまや聖天様の信仰をしているのではないのですか?」
私は相手の方がクリスチャンなのかと思いました。それならそれでいいでしょう。
また、結婚の月参りの祈願までしていないなら娘さんの挙式がどうであれそれも勝手です。とやかくはいいません。
しかし本人が信者であり、かつわざわざ御礼参りにまできてその席でそういわれたのでは黙ってはいられません。
お断りしておきますが私が言いたかったのは「キリスト教はよくない」ということではありません。
信仰とはそんないいかげんなものではないと思ったのです。
其の方々の宗教観に問題があるということです。
キリスト教は堂々たる世界の大宗教です。宗教は遊びではありません。
たとえば、逆にクリスチャンが祈願があるので仏寺に護摩焚いてもらいに行くと聞けば大方のクリスチャンはそれは変だと思うのではないでしょうか?
別に当院で仏式でやれという意味ではありません。、そういう用意もありません。
結局その方は日本式に地元の神社で結婚式を上げました。神社に報告するのはその土地に住むもの、日本に住むものとして妥当だからです。
すくなくともキリスト教の教えには観音様や聖天様の存在余地などありません。
本来が一神教であり、異教にはいささかも妥協できない教えなのです。
いいたいことはただ縁もゆかりない全く違う宗教であるのにファッション性から重要な宗教行事を執行するのがおかしいということです。
よく宗教は皆一緒だという人がいます。もちろん一緒の部分もあります。
たとえば世界平和への祈りなどを否定する宗教は現代の世界宗教ならありえません。そういう共通の理解もあります。
しかし、宗教は同じ点もありますが一から十まで同じだというのは暴論以外のないものでもありません。
若し本当に宗教はみな同じだと思うなら聖天様に祈らず、はじめからキリスト教の神様に祈るべきでしょう。
聖天様は叶える神様で愛を誓うのは別な神様などと云うことは容認できません。
今日では「そんなことどうでもいいじゃないか」という人の方が多いかもしれませんが私は僧侶としてこだわりたいと思います。
こういうところは頑固ですから梃子でも変えません。
また日常はともかくお寺の例祭に十字架を下げて列席している人もいましたのでこれも注意しました。
ただし、これも本人がクリスチャンならそれでいいと思います。
理由はともあれクリスチャンがお寺に来てもいいですし、祭礼に来てもそれはそれでいいでしょう。仏教徒のマネなどする必要はないのです。
宗教をファッションのように扱うのが私には納得いきません。キリスト教だけではありません。
ちょっとした知り合いで「カッコ良いからこれこれこういう腕念珠が欲しい。あなたは念珠店さんと懇意だろうから是非探して欲しい。」と言ってきた人もありました。しかし仏教の信仰がいささかも無いなら、それは念珠ではなく実質は、「只の腕輪」です。念珠は仏具です。飾りではありません。
「うちには信者さん用の念珠があるだけです。うちでとりよせるのではなく、腕輪屋さんか、パワーストーンなどを売る貴石店で探してください。」と申しました。
人はどうあれ私はそういう頑固者であり続けたいと思います。