よくあるセミナー、スピリチュアルなワークではキリストも仏陀も天照大神も何でもあり。それはそれ。
だが、そのノリのまんまで宗教の門を叩かれるのは困る。
スピリチュアルなワークで取りざたされているそれらはその人の中のイメージでしかないからだ。
現にその人たちはキリストも仏陀も詳しくは知りはしない。
ただのイメージだ。
知ろうとすればその説くところはまるきり違うのは明白になる。
知らないから宗教に無知ゆえにいっしょに思うだけのこと。
実際の宗教はそこを無視してそのまま通用しない領域だ。
キリスト教もヒンドゥー教も古神道もイスラム教も皆枠はある。
なんでもありではない。
私は何の宗教だってアクセスしやすいならばその人はそれでいいと思う。
私の知ったことではない。やめてうちにこいなどとは口が裂けてもいわない。
私だって自分が理解しやすいので仏教を選んだだけだ。ほかに理由はない。
真理だからじゃないのかって?真理なんか知るわけない。知ってりゃ仏だ。
私はただの凡夫だ。
ただ心同じくする同行と歩むだけだ。
よって信仰は人の自由だから否定はしない。
でも・・・
結論から言えばクリスチャンで「ご祈願してほしい 当院のお守りほしい」という人はその時点でクリスチャンではない。少なくとも良きクリスチャンではない。
クリスチャンのありかたではそういうことはしないのが本来だ。
もちろんかといって、当院の信徒でもない。何でもない。
あえて言うなら「自分教」の人だろう。
仏縁を施すというのは大事だという認識でしているがいまだ同行の方ではない。
当然、諸行事の依頼人の信仰までいちいち確認はしていない。少なくともその方が心寄せてくれているというのが祈願を行う側にも一縷のよすがに過ぎない。
だが、もちろん入講となるとレベルは違う。
「あなたと私は宗教的な考えが同じじゃないのに指導はできませんよ」ということだ。
当たり前だと思う。
私には別にどなたが何の宗教の信仰をしていてもいいし、たとえ「自分教」でも勝手だが、受け入れはできません。
まっぴらごめん被る。