強い信仰とはなんだろう。
高校生のころの話だが一つ年上で「絶対キリスト教が正しい‼
仏教なんかダメだとわからせてやる」という人がいて対談しました。
まあ、結果はしまいに相手が沈黙してしまい、再度の戦いを約しましたがそれきりです。
しまいには彼は「聖書は神のみ言葉です!」と繰り返すだけだった。
とはいえ相手が何も言えなくなったのは、仏教が正しいからでも何でもなく、私の方がたまたま相手よりうまくしゃべったからというだけのこと。
だが若気の至りでそんなことをしましたが、今にして思えばどちらが勝って正しいも正しくないも関係ない。
キリスト教の彼が私を説得できればキリスト教が正しいという思い込みの人間が二人できるだけのこと。
私が勝っても同じこと。仏教が正しいと思う人が二人できるだけのこと。
それ以外の意味は何もない。
その結果に正しい正しくないなどなにも関係ない。
強い信仰とは果たしてなんだろう。
思い込みの塊になることだろうか?
そうではないね。
どんな宗教にも矛盾はある。
神や仏はそうでなくても宗教自体は人間作ったものだからね。
それがないと思うのは無意識にまずい処をみまいとするからだろう。
そうではなく矛盾もあろう。おかしくもあろう
正しいも正しくないもそれをジャッジする脳みそや教養が自分にあるのか?
それすらわからない。
そんな私が正しいと思う教えはただしいのか?
そんな私が正しくないという教えは正しくないのか?
どこまでもわからない。確信などない。
それでもそれを承知のうえで自分がそれを自己の拠り所として生きていこうとする覚悟だと思う。
それこそが強い信仰というものだろう。
それは自分の責任で自分において決めたこと。
だからそこに他人様は関係ないのだ。
強い信仰といってほかに考えられるものは私には一切ない。
新宗教などはほかの部分を勉強するのは所依の経典でも禁止することすらあるらしい。
愚かな思い込みを作る苦肉の策だ。
智慧の目を塞いで妄信する。
そんなものでできた信仰を強い信仰だなどとは思わない。
ちゃんちゃらおかしいわ。
それはただの作られた心の病だ。