人の一生に多くの苦難がある。
健康不安、金銭問題。失恋、家庭不和、職場のトラブル、事故やケガ、病気で入院。離婚や家庭崩壊、人からの誹謗中傷、果ては天災人災の数々に至るまで・・・・。
上げるに切りはない。
しまいに一歩も動けなくなって物も言えなくなるまでそれが続くのが人生だ。
それを考えれば死にたくはないが死なないのも草臥れて困る。
そんな人生だからこそ、なんらかの知恵を模索して一生懸命駆使して生きていくのもまた人生だ。
それはなんでもない我々庶民も、大富豪も、総理大臣も、上御一人も人としては何も変わらない。
信仰とは一面を見ればその中の一つの手立てだと思っている。
生きていく手立て。色々な手立てがあるだろう。
お金もそう、家族もそう。友人関係もそう。
才能もそうだろう。
強い意志や強靭な精神だって極めて強い武器だ。
だから信仰なんて自分はそんなものはいらないという人もあろう。
それはどうだか知らぬ。人様のことだ。
構う気など毛頭ない。
人様にどうこう言うほど何も知らない。わからない。
私だけでなくわかる奴などいないだろう。
若いころ、「君さあ、お坊さんなんだって?私ね、信仰したいけどね、そういうのできないんです。悩んでいるんだよね。君はそういう人間は一体どうしたらいいと思う?」と聞かれた。
そういう人にはそうなんだろうね。
「いらないものはしなきゃそれでいいでしょう。なんで悩むの?」と言ったら驚かれた。
この考えは今でも同じだ。
今だって何が一番正しいかなんててんでわかりません。
わかる人に聞けって?聞きません。そんな人いないと思うから。
本人が自分でそう思っているだけだ。
ただ私自分は其の人生の手立てとしての信仰を失うまいと思う。
どこまでも。
逆にそこに余人の介入は断じて許さない。
それが私の生き方だからです。