祈願とはあくまでお願いであって神仏へのごり押しではない。
だから叶わないなら叶わないことを神仏の答えとして受け止めるのが信仰だ。
どこまでも神仏に自分の言うことを聞かせようというのはどうなんだろう。
神仏の声なき声に耳を傍立てて生きることこそ信仰というものではないのだろうか?
ではその声なき声を聴くことはどうしてできるのか。
霊能者でもない限り無理?
いやいや、そんなことは一切関係ないのだ。
それは身の回りに起きてくることを注意深く見ることだ。
それが神仏の声を聴くこと。
「観世音」世の音を観るとは奇妙な表現だがこれはそのことではないか。
観世音も我らをみそなわしたまいてその声を聞き取らせ給う御仏ゆえにこの名がある。