金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

延命十句観音経講話 4

奴僕朝念観世音 暮念観世音

 

朝な夕なに観世音を念じる。

ただ祈願するとかではなく、観世音を思い起こす。

こころに観音様の居場所がある。

「そうだ、私には観音様がいるんだ!」

そこまでなればやっと信仰らしいものになる。

困った時も泰然としていられるようになる。

 

ただそんなのはすぐにはありえない。

 

信仰にわずかでも疑うと「良く信仰が薄い!」「信じる心が足らない‼」とか言って新宗教では怒られたりもするらしい。

質問しても怒られることもあるそうだ。

でも信仰って何だろう。

それがわからないのに信仰が厚いも薄いもない。

 

ある方がお稲荷さんにお参りした。

そうしたらその所属の信仰団体から「あなた、お稲荷さん信仰はしたらいけないんですよ!」といわれたそうだ。

その方が「だって本部にだってお稲荷さまあるでしょう、なぜいけないんだ?」といったら答えに窮して「そんな変な理屈ばかり言ってあなたはダメだ!話していて頭が痛くなる、ダメだ。」といわれたそうな。

バッカじゃなかろうか‼

頭が痛いんじゃなくて悪いんだろうよ。

同じ団体でそこのお経を研究したらしかられた人もいる。

「教祖様の書いたものだけで勉強しなさい」だそうだ。

囲い込みだね。(笑)

 

ひたすら疑いを追い払い、頼み、縋り付き、念じることが信仰でしょうか。

違うと思う。

観音様を信じるのも人を信じるのも同じ。

どんな人でも長い時間、その人と付き合わないとにわかに信用なんかできないでしょう。

信仰だっていきなりできない。

薄いも篤いも不可抗力だ。

 

できるのは真似事だけだ。いまだどんな人だか良く知らない人でも、付き合いは可能だ。

だからお経を読み真言をとなえて付き合ってみる。

疑い?

疑いはあって当然。

無きゃダメです。

うたがいこそが信仰という刀を鍛える鎚だ。

 

そういう何にも疑わない脳みそになったらダメ。

どんな馬鹿げた教、金を巻き上げるだけ巻き上げる「統一教会」や人殺しの「オウム真理教」

輸血拒否カードを持たせて、子供を鞭で打ち据えるセクハラ教団「ものみの塔」みたいな、非常識で反社会の教えでもズブズブだ。

疑ってはいけないはありえない。疑わねばこういう邪教の奴婢奴僕となる。

 

何も知らないもの、疑問だらけで当たり前でしょうに。

宗教には「疑わないことを拒否」しないとダメ。

ただ、疑いながらもその神仏とお付き合いしてごらんと言いたい。

疑い答えを見つけることから本物の「自分の信仰」になっていく。

 

いきなり初対面で「私を信用しないならタダでは置かない」などと言う神仏はない。

そんなこというのはヤクザや悪人の恐喝だけだ。

 

私だってそういう信仰の真似事の延長です。

今だって真似事っちゃ真似事。わからないことは尽きることはない。

疑いこそわが信仰の軌跡だ。

 

だって、仏さまにあったわけでもない。

お浄土も見たこともない。

悟ってもいない。

だが「信じる」とは疑いながらもその付き合い続けることを選択することが「信仰」だ。

他に何もない。

勿論、そういう選択をしないのもひとの自由だ。

だから信仰しなさいとはあえて強く言わない。

 

するもしないもアンタの勝手。

私の知ったことではない。