奴僕朝念観世音 暮念観世音
朝な夕なに観世音を念じる。
ただ祈願するとかではなく、観世音を思い起こす。
こころに観音様の居場所がある。
「そうだ、私には観音様がいるんだ!」
そこまでなればやっと信仰らしいものになる。
困った時も泰然としていられるようになる。
ただそんなのはすぐにはありえない。
信仰にわずかでも疑うと「良く信仰が薄い!」「信じる心が足らない‼」とか言って新宗教では怒られたりもするらしい。
質問しても怒られることもあるそうだ。
でも信仰って何だろう。
それがわからないのに信仰が厚いも薄いもない。
ある方がお稲荷さんにお参りした。
そうしたらその所属の信仰団体から「あなた、お稲荷さん信仰はしたらいけないんですよ!」といわれたそうだ。
その方が「だって本部にだってお稲荷さまあるでしょう、なぜいけないんだ?」といったら答えに窮して「そんな変な理屈ばかり言ってあなたはダメだ!話していて頭が痛くなる、ダメだ。」といわれたそうな。
バッカじゃなかろうか‼
頭が痛いんじゃなくて悪いんだろうよ。
同じ団体でそこのお経を研究したらしかられた人もいる。
「教祖様の書いたものだけで勉強しなさい」だそうだ。
囲い込みだね。(笑)
ひたすら疑いを追い払い、頼み、縋り付き、念じることが信仰でしょうか。
違うと思う。
観音様を信じるのも人を信じるのも同じ。
どんな人でも長い時間、その人と付き合わないとにわかに信用なんかできないでしょう。
信仰だっていきなりできない。
薄いも篤いも不可抗力だ。
できるのは真似事だけだ。いまだどんな人だか良く知らない人でも、付き合いは可能だ。
だからお経を読み真言をとなえて付き合ってみる。
疑い?
疑いはあって当然。
無きゃダメです。
うたがいこそが信仰という刀を鍛える鎚だ。
そういう何にも疑わない脳みそになったらダメ。
どんな馬鹿げた教、金を巻き上げるだけ巻き上げる「統一教会」や人殺しの「オウム真理教」
輸血拒否カードを持たせて、子供を鞭で打ち据えるセクハラ教団「ものみの塔」みたいな、非常識で反社会の教えでもズブズブだ。
疑ってはいけないはありえない。疑わねばこういう邪教の奴婢奴僕となる。
何も知らないもの、疑問だらけで当たり前でしょうに。
宗教には「疑わないことを拒否」しないとダメ。
ただ、疑いながらもその神仏とお付き合いしてごらんと言いたい。
疑い答えを見つけることから本物の「自分の信仰」になっていく。
いきなり初対面で「私を信用しないならタダでは置かない」などと言う神仏はない。
そんなこというのはヤクザや悪人の恐喝だけだ。
私だってそういう信仰の真似事の延長です。
今だって真似事っちゃ真似事。わからないことは尽きることはない。
疑いこそわが信仰の軌跡だ。
だって、仏さまにあったわけでもない。
お浄土も見たこともない。
悟ってもいない。
だが「信じる」とは疑いながらもその付き合い続けることを選択することが「信仰」だ。
他に何もない。
勿論、そういう選択をしないのもひとの自由だ。
だから信仰しなさいとはあえて強く言わない。
するもしないもアンタの勝手。
私の知ったことではない。