金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

高い御祈祷を頼んでかえって悪業を作る話


拙寺ではご祈祷にクラスがあります。
それはする内容や時間の長さが違う。
御祈祷は本尊により深くアクセスして信徒さんの御希望を本尊にお伝えするためのものです。そのプロセスを密教では「加持」と言います。
これを作業として考えてみるとわかりますが、作業はより時間や準備を掛けてお祈りする方がコストは当然高いことになります。

では何でもその方がいいのかというとそうとは言えないのです。

例えば癌の手術などのご祈願はやはりじっくりやりたい。でもちょっと風邪ひいたというのにそういうのと同じ大がかりな祈願はいりません。
お金に任せて大したことでもないのに、なんでもかんでも、大きな祈祷をするように頼むのは行者や本尊にいらぬ世話をかけるのでかえって悪い業を作ります。
祈祷はもっと謙虚な心のもとで行われるべきものですから。
大は小を兼ねるから、なんでも大きいに越したことはないというような考えは無用です。
だからわが師はどんなご祈祷をするのかは基本的に行者が決めるものと言っていました。
またそれがどの程度の祈願ですべきか読めるような行者でなければいけないとも言われた。

まあ、でも各人の経済事情もあるから一応どうしますかとは拙寺は必ずうかがっていますけどね。

また、やればやるほどどこまでも目的に近づくのか?というとそれも違うのです。
いくらやってもこれはここまででよいのだというラインはあるんですね。
ですからお祈りは本尊に届けたら結果はなんでも思う通りとは限りません。
つまりは何でも祈願相応の丁度良いというレヴェルがあるということです。

逆に祈願にこられて「そもそも神仏は平等なもので、そういう祈りにランクなんかあるのはおかしいじゃないのか」という方もいます。
なるほどね。そうかもしれませんね。
そう思うならご自分でどうぞ。
それなら行者が祈ろうがあなたが祈ろうが同じはずですから祈願は頼むには及びません。
何故わざわざお金までかけて私に祈願を頼む必要があるのでしょう?
言うこととしようとすることが矛盾してないですか。