金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

月報誌上法話より 恕と怒(加筆編)

「ゆるす」という字には色々あります。許す、赦す、恕、宥、允などですが、面白いのは「恕」と云う字です。これは「説文字解」によると「仁なり。心に従い如を声とす」とあるそうです。意味は広い寛大な心で許すこと。思いやること。
人は人を許す時には、必ず自分の非や弱さにも気が付くものです。そもそも「思いやる」とはそういう心がどこかにあるものでしょう。
大事なことは如を「声」とする点ですね。つまり許すということは黙っていてはダメで、声にしてあげないと伝わらない。「いいですよ。」「大丈夫」と云ってあげることで初めて伝わります。自分で勝手に「まあ、いいか・・。」と思っていても判りません。
「許す」と云われると不思議と人は救われます。逆に「許さない。」と云われると苦しい。
「許さない」といったって何するわけじゃないけど、「許さない。」と相手に云うことは一種の「呪い」ですね。例えば何かしら人に迷惑かけてその弁済が終わっても相手が「ゆるします」というかいわないかで相手は全く違ってくる。
勿論ものによっては弁済してもらっても、なかなか「ゆるせない」ということもあるでしょうけどね。
でも「許さない」ということは実は自分自身も呪うことです。其のままの状況に身を措くことになります。これに絶対がついて「絶対許さない!」となるとどうでしょう。
実はこれは許してしまいそうな、くじけそうな要素が無意識のうちに見えているのです。
だから自分で「絶対」を着けて強化しておくのです。
概して冷静に「許さない」でなく「許せない」の方が実は手ごわいのです。
「絶対○○」は用心しないと信用ならないかも。
たとえば借りたお金を返さない人ほど「絶対返すから貸してください。」といいます。約束を守れない人ほど「絶対」といいます。
「絶対○○しますから」と云って結局○○しない人、沢山見てきました。
私は「絶対」がつくと首をかしげます。
もろいのです。「絶対」は。
逆な意味ですが「怒」という字は「恕」に良く似ていますね。怒という字は心の上に奴です。恕との違いは女篇に口か又かです。
つまり「怒る」のは奴の心。
「ゆるせない」のが奴の心です。この奴とは大名行列の「奴さん」で無く、賤しい人の意味。賤しいといってもここでいうのは階級社会でいう「身分が賤しい」とかではもちろんないですね。あさましく、慎みのない人の心です。
例えば会食で人の分も構わずガツガツ食べるなどは賤しい行為ですね。そういう心が賤しい心です。仏教的に言えば「貪」の心です。
貪りの心があれば人はなかなか許せないというのです。貪りというのは不思議なもので、「あ、自分は貪っているな。」と判れば大概そこでやむものです。
そうでなく、なにかにつけ「これは私の権利だ」とか、「あれは絶対俺のだ」というふうに言っていると、次に出てくるのは怒りです。仏教でいう「瞋恚」ですね。
別に権利主張が良くないことではないです。大事なのですけど、これが強すぎると人を要れるということはやはり難しい。実害のない事でも人を排除します。
寛容ではなくなる。だから貪りが強い人はいつも「臨戦態勢」になります。いつも怒っています。思いやりなんてどこかへ行ってしまいます。酷くなると自分の所有物でないものも自分のもののように思う。
どうしてそうなるのかというと不足の心から離れられない。どんなにものがあっても不安なんです。
でも物は使えばなくなります。使わないと役には立ちませんよね。
たとえばお金だって同じことでしょう。使わないと何も買えない。サーヴィスは受けられないわけです。無いのと一緒です。
でも使えば減ってしまう!なくなってしまうわけです。
「もの」に強く執着して頼る以上はこれはまぬかれないジレンマです。
でこのジレンマを解決するのは・・・?
それは「信じる」ということにほかなりません。
人を信じ、社会を信じ、神仏を信じる。そしてなによりそういう目に見えない「恩恵の中にいる自分」を信じることです。
恕とは心の上に如という字。如はそのままという意味ですね。
そのままで大丈夫という心です。
人はこの信じるということがないとなんにでも執着しないと不安になるのです。
たとえばお寺に拝みに行ってもここはいつも私が座っている場所なのにとか訳の分からないことを平気で主張します。
それはそうしないと自分の居場所が奪われるのではないかという漠然とした不安があるからです。ステータスが奪われるように思うのでしょう。
でもこういう人は仏様を信仰している甲斐が本当にあるだろうか。
大事なことを全部取りこぼしているのではないでしょうか?