金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

聖天像の材質

聖天様にはその材質によって金天、銀天、銅天があるといいます。
正確にはこのほか木天や鉄天もいます。
金属製の天尊の場合はオリジナルを大事にして型を破壊するということもありました。
そして古来、金天が最も祈願が叶いやすく、次に銀天、最後が銅天といいます。このほか金メッキした金天仕立て、銀天仕立てがあります。
鉄天は調伏用、木天は浴油ができませんから油をはった多羅の中に鏡を入れてそれに注ぎます。
金天は最上の尊像と云いますが当然小さいものが多いです。
小さくても重い金属ですから浴油の油を掛けても倒れないのでしょう。
金天も本式の作りは中を空にしてはいけないとされています。
つまり純金の塊で作るわけです。

しかしながら、祈願の経験からこうした尊天の材質の違いが祈願の結果に影響するとは私は思いません。
たとえば歓喜天の超有名なある霊場では浴油仏は木天だそうです。
拙寺には銀天と銅天、単身六臂天がありますがよく拝んでいるは古くから拝んでいる銅天です。
確かに金天など造れば「すごいなあ!」と思いますが、寺にもとからあれば別ですがはじめからそれを拝むという行者は稀でしょう。
大体が銅天と云われる真鍮製が圧倒的に多いのですが、それを長い事拝んでいて、お金ができたから金天を作る。造るはいいが果たして長年拝んできた尊天を措いて金天を拝めるのかな?と思います。
仏教的にも「習気」(じっけ)という言葉があります。慣れ親しんだものには当然愛着、があります。
ものにせよ人にせよ長年ともにあればそれは即自分の歴史であります。
今昔物語だか日本霊異記であるか忘れましたがこんな話があります。
ある男が地蔵尊を拝んでいましたが、あまり素晴らしい出来のものではなかったと言います。
いつの日か立派な地蔵尊を作りたい。
そう思って長年コツコツお金を貯めてついに立派な尊像を作らせました。
男は大喜びして、古い尊像は脇に置き、これを本尊にして拝みだしましたが、ある夜、夢に今まで拝んできた地蔵様が出てきて悲しそうにしています。男は大いに反省し元の尊像をまた中心に戻して拝むことにしたという話です。
これが習気です。
地蔵尊自体に二つはありません。しかし尊像には個性があります。
悲しそうにしている地蔵尊、それは実は長年その地蔵尊を拝んできた男の心の表れでしょう。
この男の場合は表面では新しい立派な尊像に心惹かれますが、心の奥では罪悪感になり彼を責めます。
この話を持ち出すのは「新しい尊像を作るな。」ということではありません。
勿論「金天造るな。」という話でもありません。
(もっともこれは聖天行者の話です。在家はどんな聖天像も持てないのが原則です。)
ただ、良い仏像が祀りたいから新しいのにするのではなく、それにはタイミングが必要ということです。
もっとはっきり言えば「仏様の御意志」がそこにあると思える何かが介在しないといけないということです。
これは何様でも勧請する場合も同じです。
お金があれば金でもプラチナでも自由に作れますがそういうものではないのです。
むしろ、本当にお金があるなら初めからできるだけ立派な尊像をつくり熱心に修法するべきでしょうね。
長年拝んできた本尊をおもての人間の希望だけで取り換えるというのは難しいのです。時として潜在意識が頑としてこれを承知しないのです。
私が言っているのは単に我々の意識の問題だけではありません。信仰する人の潜在意識は仏の心と繋がっています。
だから本当に仏像が欲しい人は信仰したいからと云って軽々に間に合わせの尊像を求めるよりは初めは御札や梵字で祀るべきです。
願望実現に目がくらみ、そのためだけに何とか金天を作りたいなどと思うことは三毒熾盛の煩悩でしかありません。
そんなことをしても上手く行かないのではないでしょうか?
信者も金天を祀ったお寺でないと駄目などと思うことは大きな間違いです。

以前「どこかに金天祀ったお寺ないですかね?」という電話がありました。「何故、金天じゃないと駄目ですか?」
「本当に御利益あるのは金天と聞いています。」
「そういうお寺が見つかるまでの間、お宅で拝んでもらっていいですか?」
そういうものじゃないと言ってもわからないのです。こういうアンポンタンは。
コンピュータの最新版がないからとりあえず古いので…みたいな感覚ですかね。