仏教でいけないという「貪り」。
でも貪りってどんなことでしょう?
商売やってたらどんどん儲かるのはうれしいよね。
「でも、それっていけないんでしょか?」という質問を聖天信仰の方から頂いた。
実は貪りはお金が儲かることと関係ないんです。儲かるのは大いに良いこと。
儲かってよくないなら「商売繁盛」の御祈祷するのはおかしいことになる。
だが無理に儲けようとすることは貪りにつながる。
資産家は貪欲で貧しければ心つつましいというとそんなことはウソです。
もちろんその逆もウソ。人品によるのみ。
商売というのは原理は簡単、足らないところに必要なものを持っていく。それだけです。
必要なものもっていけば喜んで買ってくれる。だから儲かる。
これは良いことです。良いことずくめ。
買って良し、売ってよし、世間よしで三方良し。経済はそうでないといけません。
よく言う顧客を創造するというのは、つまるところはニーズの創造です。
でもそれって本当に必要のない無駄なものを買わせることにもつながりますね。
だから、私はそれは無条なしに好いとは思っていません。ニーズ創造にもくだらないものとすばらしいものがあるということ。
ここが大事です。
しかし、売買は必要最低限な生活必需品だけでいいということではない。
いわゆる贅沢品と言われるものも不必要ではない。
それは人の心にゆとりを生みます。心にゆとりがないと芸術は誰も振り向かない。
こころのゆとりから多くの芸術が生まれる。
ゆとりの枯渇にはプロレタリア・アートみたいなものだけしか生まれない。
あんなのは共産主義の宣伝の看板絵であって本当の芸術じゃない。
音楽でも絵画でも芸術は文字などで語れないもの、代替えのないものが芸術だ。
だが、くだらないニーズは資源の無駄使い、地球の環境破壊にしかならない。
それが貪りの最たるものだ。
ブーメランのように帰ってきます。
そういう企業は今や地球の怨敵でしかない。
いくら儲かってもよい、観音様や聖天様の喜ぶ商売は、売っても 買っても その周囲もよろこぶ。そういう商売です。