1、難しい祈願は掛けてもいいでしょうが無理、つまり道理に合わぬ祈願は
すべきではありません。尊天は魔天に非ず。護法の大善神です。
2、祈願の為に無理な断ち物、苦行などはしてはなりません。これは全て
不信の裏返しで無用です。.修行と祈願は目的が別です。
神様は取引などしません。 歓心を買って懐柔したり、あまつさえ天尊を
操れるなどとは夢にも思わぬことです。それが天尊の大きな怒りを買
うことになりかねません。
布施 惜しみなく自分の力や資材を善事に施すことです。
持戒 五戒を保つ。このために当院では五戒を受けねばなりません。
精進 信仰も育て培うことが肝要です。尊天と共に歩む心が大切です。
忍辱 信仰さえすれば全て円満とは限りません。難儀に耐える強さこそ
頂くべき利益です。
禅定 手を合わせ天尊と心を通わす時間が必要です。
般若 常に因果を信じ、縦には未来をみすえ、横には人との繋がりの中
で生きていくことです。
正しい信仰とはこれら六波羅密に沿うものでなければなりません。
尊天は護法善神であって、あくまで法に沿うものを加護する存在です。
仏法を措いて聖天信仰をすれば感応するのは悪鬼、毘那夜迦であって
それは尊天ではありません。祈願は成就したようにみえても決して
良いことにならないのが偽りの聖天信仰=「毘那夜迦信仰」の末路です。
4、歓喜とは人と喜びを共にして生きていくことです。それこそが真の幸せ
です。歓喜天のお姿は共に歓び合う生き方を示すものです。
5、○○さえ手に入れば他は何もいらないなどという強い執着はあえて
一旦捨ててみることです。それが本当は苦しみの大本かもしれません。
世の中に「これさえあれば他はいらぬ」などというものはありません。
その考えそのものが妄念の極みです。
6、必ず本地仏十一面観音を深く崇敬信仰せねばなりません。
※五戒の所でも申しましたが尊天は仏法護持の天尊です。
まず正規に仏教徒になって受戒を受けるというのが天尊を信仰する上
では大切と考えています。
余の弁天、毘沙門天等の信仰も正式にはそうあるべきでしょう
これは仏菩薩と違う点と思います。
例えば観音は普門品にあるように 遍く門戸を開いて救済に隔てがあ
り ませんが、護法天等は基本的に仏法の護持者なのです。
三宝を護る故に受戒と仏である本地の信仰は不可欠と思います。
以前、川崎大師様に伺いましたがまず三帰戒をお授けして後の御祈祷
でした。大変理にかなったものと思います。
川崎大師の霊験が勝れて確かなのもおおいにうなずけます。