金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

懺悔って何すれば?

この間お見えになった方から「懺悔」についてご質問いただきました。
「懺悔」って何を懺悔するのですか?
今までの行為を懺悔するのでしょうか?
もちろんそうです。
しかし、この今までの行為というのはこの世に今回生を受けてからだけじゃなく、前世はもちろん、はじまりのないほどの大昔からが入ります。
人類以前に我々が恐竜やアンモナイトだったかもしれない時代も入ります。
我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋痴そのままです。
必ずしも昨日今日のことじゃない。
恐竜やアンモナイトのままじゃ懺悔できない。それが何百万回という転生を繰り返して人間になった。やっと懺悔できるようになったんです。
しない手はありません。

また、私は何も懺悔することないという人もいます。
それは人間社会ではそうかもしれないです。
でもほかの生き物にとって人間としてのあなたはどうですか?
生きることということは他の生命を殺すこと。
殺さずに生きられないのが命です。それが天地の理です。
懺悔すれば済むのか、それでやめられるのかというと必ずしもそうといえない・
だったら懺悔しても始まらないという人もいれば、だからこそ懺悔せずにいられないという人もいる。
どっちが真実とも言えない。どっちを選ぶかしかない。
でも転生ということを信じるなら前者です。
もとより娑婆はそういう矛盾に満ち満ちているところです。
すっきり腑に落ちて納まることなんて本当は何一つないのです。
懺悔してもうしないということ、それだけなら道徳だけでいい。
そうではないので宗教が必要なのです。
この娑婆で真の心があるとするならば、それはむしろこの懺悔の心だけといってもいいかもしれません。
それを思うとみそ汁のシジミの身だって残せない。おかずのちりめんじゃこも一匹もこらず食べねば、その命は何のために殺されたのかわからないですね。
そういう犠牲があって我々は生きている。だから懺悔は感謝と一つ・
だから懺悔ってきっとただの「ごめんなさい」じゃないですね。
仏教者とは後者のこころを持つ人々をいうのだと思うです。
生きるとは他の生命を殺すことは生命共通の真実。だとするとそこに生きるとは懺悔することもまたひとつと思うのです。
信仰のある人じゃないけど、「お葬式して骨になって綺麗なお墓に入るのなんて絶対に嫌だ。人間のたれ死んで土と化して他の虫や植物の栄養になって恩を返す。それでこそフェアなんだ」といった人がいます。
私には必ずしもわからないではないです。
この心。
無宗教の人ですがむしろ真実、宗教的だなと思ってしまうのです。
懺悔ってそれによって自分の悪から逃れることじゃなくて、正面から認めて受け止めることなんじゃないかしら。