金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

修法への憧れ

色々な密教の修法にあこがれる人がいますね。
でも、それで実際、密教者にまでなる人はまれです。
私の場合はこれですが密教自体知りたい。即身成仏が知りたいということでしたので素人からこの道に入りました。
世の中の望みで何が一番でかいかといえば、この身このまま仏になる!
これくらいスケールのでかい面白いことはないと思っておりましたので。
これすごくないですか?

でもこれ以外にちょっとほかの目的の方もいるようです。
例えばマジカルな力を手に入れてお金持ちになりたいとか、もてもてになりたいとか・・・・別にこれをあえて悪く言う気はないです。
人の欲の大なるものはお金と色恋と昔からいうくらいですので、お金も色恋も大事でしょう。
それはよくわかります。
大体呪術や玄学からはいる人はそれです。
でもそれで密教の修法を目指すのはちょっとやめておいたほうがいいでしょう。
大変な割にはそういうことが叶うと限りませんから。
それは民間のおまじないとかでやってたほうがいいね。
あるいは信者となって熱心にお参りするとかのほうがいい。
なぜなら密教修法はおおむね人の為に祈ることが主眼となっています。
自分のことじゃないんですね。
密教だって菩薩道が基本ですから。
だから行者になって聖天供を習って自分で大金持ちになる修法なんてしても大金持ちにはならないと思う。
なぜでしょう。
人の祈願は行者さんにまかされている。
でも、行者さんの祈願は本尊さんに任されているんですね。
本尊さんがノーなことはどこまでもノーです。
よく行者が本尊を使役するなんてこといいますが、それは第三者の祈願の場合のうえのこと。
三者の祈願のことなら本尊は行者の存念を認めて優先してくれます。
その代わり責任はお前とれよと言われるかも。
でも自分のこととなるとそうはいきません
アラジンのランプの魔神みたいに本尊を自分で自分のためにせよ、ひとのためにせよ自由に使いこなせるものなら、それはもう、礼拝対象じゃないよね。
こはちょっと考えればわかる筈です。
本尊は行者の言うなりにはならない。その代わり、行者のことは黙って本尊が考えてくれます。
天部の本尊と行者はそういうコンビで成り立っている。
行者自身は自分のことではどこまでも本尊の心に沿わねばならぬ存在です。
本尊の意向無視では必ず脱線します。
どういうことがノーなのかというと密教の五大願にもれることです。
まあ、福智無辺誓願もあるので金持ちにならなくても幸せで豊かになることはオーケーです。
というよりそうならないと嘘です。
密教では清貧第一なんて言わないので。
だけど必要のないものはくれません。
この必要は金額じゃないんですね。
たとえ10億円でも必要なら都合できるかも。
でも個人的にはこずかいもろくろく自由にならないかもしれません。
全ては本尊の胸一つです。

それでも願望成就のために聖天様の印をどうしても教えてほしいというような人や何か自分でできる秘法はないかとお尋ねの人もいますが、密教は手続きを得て伝授されないと認められないんですね。
そこは多分みなさんご存知でしょう。
究極、人が認め無くてもそんなものどうでもいいかもしれない。
これは私もつきつめればそう思う。
だけど神仏が認めない。
これだと全然意味ないです。

よく「護身法」とか「修法」を自分でものの本で見よう見まねでやってきた人はいざ、伝授となると全く効かないことのほうが多い。
要するにその人の心は伝授されないものは駄目と知っていながら、そういう手続きに目をつむって意味感じないようにやってきたわけなんです。
それを一転して伝授受けるなんて言うことになれば整合性が取れない。
矛盾が出る。
法はひとつには伝授を重く見るからこそ効験を見る。
でもそういう人は伝授を重く見れば自分がやってきたことは無意味どころか越三昧耶という宗教上の罪になる。
だからといって伝授は形式的と思えば受ける意味自体がない。

でも手順踏まずにそういうのやってきた人にはあえて注意もしません。上記の理由でおおかた手遅れですから。
そんなくらいなら、もうはじめから自分で作った印を結んで勝手に作った呪でも唱えてみたらどうでしょう。
自分が作ったのだから勝手ですよ。越三昧耶にもならない。
冗談抜きで案外効くかも。
印が効くのじゃないんですね。心が効かすのです。
印だけ結んでも子供の手遊びと一緒です。