双身毘沙門天浴油供の中日です。
今日は大福生寺のお祀りでもありますので朝のうち、急きょ一座して出かけます。ほかにも頼まれてお預かりしている荼吉尼天様だのお不動様だのもご供養しないといけない予定があるし、火伏の方もやらないといけないしで・・・間に合うかなと思うほど忙しい。
こんな時にしなくてもと思うけど、歓喜団が固くなっては申し訳ないので・・・。
普通には本地は上社は普賢菩薩、下社は千手観音です。
私的には本地は双身毘沙門であると勝手に思っています。
別にどちらでもいいのですけどね。
これが私には三井の尊星王様とつながって見える。
尊星王も鹿の頭をいただく神です。これ本当はジャコウジカで麝香がお供物だからなのですけど・・・。何となく心象的にはつながる。ましてや尊星王は三井の伝承では実は吉祥天でもあるのですから。
この修法やっている最中、たまたま聖天様を浴油でお預かりしているお寺のご住職が見えて「西山流」では毘沙門様には「栗ようかん」
をお供えするという話も伺いました。私は一応、西山の流儀受けてますので、これって「あげろ」ってことなのだと思うんです。
聖天様はストレートに向き合っていますが双身毘沙門天はそうじゃない。
「阿娑縛抄」を読むと伝教大師の伝は向き合うそうですが、そんなのみたことないし、歴史の上からいえば、これは尊意僧正が感得の「吽伽陀耶儀軌」による秘法と言われますので伝教大師はおろか慈覚大師の御代までもまだ双身毘沙門天法は存在しないのです。
一方、真言宗でもあるのだけどそちらは多分に「毘沙門儀軌」によるものです。
だから真言宗ではそもそもは傳法院流がこれを伝えたと聞きます。
毘沙門天と吉祥天のように男性性と女性性でもいいし、何かするのにそれをしたい気持ちと抑える気持ちでもいい。私たちの中には常に一見矛盾するものが相対してそれがかれこれあいまって結論を生んでいる。そういうものが止揚されて新しいもの生むのが双身毘沙門法なのかもしれません。
全く相反すると見えていた異質さは実はお互いが必要な要素をいつも含んでいるのですね。
理智冥合。
実はいつもそこにはギフトがあるように思います。