きのうは双身毘沙門天浴油のおさらいで半天婆羅門のことについて勉強していました。
これには半天婆羅門供をおしえてくれた千葉のK師にも電話でお尋ねもしました。
半天婆羅門は双身毘沙門天で供養すべき存在でいわば餓鬼の親玉みたいのです。
双身毘沙門天とは背中合わせに毘沙門さんが立つ姿ですが、もう片方の毘沙門さんはこの半天婆羅門ともいう。
やせさらばえた姿で片手に鉢を持ち、片手は膝にたれて半裸行、口から火炎を吐いている。
いやはやまるきり餓鬼やね。こういうものが燃えてしまって食べられない餓鬼を炎口餓鬼といっています。
餓鬼も正法念所経では実に多くの種類がある。
中には天に匹敵する神通力もあるが福分がない。
毘沙門様とは兄弟でともに修行を誓ったが半天婆羅門はうまくいかず、それで妬みの心から毘沙門天の邪魔を生きがいにしているいや~な奴です。
でも密教ではこれもお供養します。
好事魔多しはどこでもいっしょ。
毘沙門天の奥さんの吉祥天もピカ一の福の神ですが、黒耳吉祥天という姉妹が付随している。
こんな話がある。
ある男が日夜一生懸命吉祥天を供養し拝んでたら、とうとう吉祥天が訪ねてきた。
「あら、うれしや!神様がご降臨とは」と大喜び。
でもよく見るとその陰に薄気味悪い醜い姿の女神が寄り添っている。
「そちらのお方はだれですか?」
「これは私の姉妹で黒耳吉祥天と申します。」
「どういうお方で?」
「・・・貧乏神です。」
「ヒエーッツ‼そりゃあご勘弁くださいませ。」
吉祥天は「しかし、私がうかがうなら、いっしょにこの姉妹もうかがう事になるのです。」
それで男は泣く泣く両方とも返ってもらったそうです。
これは顕教のお話。
密教的発想では両方供養してしまう。
だから双身毘沙門天ならぬ双身吉祥天も作られた時代もあったそうです。
禍福はあざなえる縄のごとし、だからその二つから離れる道が顕教なら、逆に禍福ともにドンと受け入れようというのが密教だと思う。
人生にはいいことばかりはない。
良寛さんは「 災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候」という。
良寛さんは曹洞宗の禅僧だがこの心は密教にも通じる。
負けを認めて「そういうもんだ」ということ。
「しょうがない」も時として偉大な知恵です。
特に半天婆羅門には誰でもないようである嫉妬の心が表現されています。
嫉妬は比較の心から生まれる。
「そういうもの」「しかたない」では無く、何とかその負けた心を相手にダメージを与えて誤魔化そうとする。
そんな嫉妬の心を「ダメだろ!」と責めるだけでは無く、お供物を用意して慰めてあげる。
半天婆羅門は餓鬼みたいに喉が細いのでお粥を作り甘い蜜もかけてやる。
それでも口から火炎が出ているので食べ物は燃えてしまって食べられない。だからお水の印明で消してやる。
叱るのではなくそうやって優しくする。
「ダメだろ!」と叱られて立ち直れるのハシッカリ自尊心のある人です。
自尊心がしっかりないと半天婆羅門みたいに何とか毘沙門様のやることにケチをつけてやるという心理学でいう毘沙門天のシャドウになりきる。
相手に引きずられて「憎まれ役」になりきるんですね。
幸せな人を憎んで敵役になり切る人いますよね。
嫉妬にはそういう恐ろしい魔力がある。
でもそこに自尊心が生まれれば、そういう比較のワナから離れられます。
「どうせ俺なんかは」とか「どうせ私なんか」という「どうせ」から脱出できる。
このどうせがある以上、人は悪役から下りにくいです。