死刑とはなんだろう。
殺さなくてはならない人は何によってそう判断するのか。
それにより扱いは代わる。
近代では敵の将軍などでも死刑の直前までは比較的厚くあつかうということはある。
国の事情で殺し合いはするものの個人の恨みは薄いからだ。ましてや兵隊が爆撃などでたくさん人を殺してもそれは個人的行為ではないし個人の犯罪ではない。
こういうことは国のカルマとなる「共業」になる。
カルマには戦に負けようが勝とうがそこは関係ない。殺戮自体が国のカルマだ。
だが、死刑になる人はハッキリ言って個人の都合や意思で人を殺し、社会の通念上、こういう人間は生きていてはいけないという考えからそう判決されるのだろう。
ようするに判決が結審した時点でそういう生きていることが許されない存在になるわけだ。
死刑になるまではせめて楽しく人間的に過ごして…などと言うなら人を死刑にしなくてはいけない意味はない。
だから環境がある程度に厳しいのはやむをえまい。
窓も小さく狭い部屋がストレスだと指摘する識者もいるそうだが面壁10年で己に向き合ってもらう部屋だと思うべきだ。
ましてや余計な娯楽などいらない。
ただし、死刑は殺処分ではない。刑罰は被害者のためにも加害者のためにも機能しなくてはいけない。
もう一度人になって懺悔しながら死んで行ってもらいたいということだ。
そのために、宗教に触れる場があるのは救いだ。
人間になるための時間こそが彼らに与えられた時間だと思う。
その意味では死刑は彼らのためにこそあるというほかない。
社会のことだけ考えるなら終身刑でいいだろう。
ただし、死刑のないEU諸国では最近、飼い殺しの終身刑の方が残酷だから死刑に戻してはどうかという議論もある。受刑者には必ずしも死刑より軽いわけではない。
若ければ途方もない時間を壁の中でい生きていくわけだ。
人が誰も来ない餌だけもらえる狭い鳥かごの鳥のようなものだ。
精神性豊かな動物である人間が精神的にもたない。
しまいに人間性すら無くなって生ける屍のようになって消えていく。
死刑の方がマシという議論も当然あるだろう。
あえて私的に言うなら、残念ながら死刑囚になってなってしまった彼らはもう一度人間になって死んでいき、間違いのない転生をしてもらいたい。
私の思う慈悲はどんなものでもただ生かして置けということではない。
人には人としての最期が必要だ。