私はこの成立をまずは良しとするものです。
少年だからと世の中舐めていると取り返しつかないことになります。
光市の事件を思い出す。主婦を強姦して殺害、赤ん坊をも惨殺し、少年だから絶対死刑にならないと高をくくって、遺族を小馬鹿にする発言さえ繰り返していた犯人はついにさしもどしで事実上の極刑に。
反対者の若い命が哀れだと思う気持ちもわからないでもないが、だからといって被害者や遺族の痛みを決して忘れてはならない。
とうの遺族となった御主人は「もし犯人が死刑にならずに刑務所から出てくれば、自分の手で殺す」とテレビで宣言。戦い続けて死刑判決を勝ち取れてうれしいか?と問うと思いのほかそんな表情はなかった。
うれいしいとかうれしくないではなく、彼は本来あるべきことをのぞむべく行動したのだろう。そうでないと納得はできなかったのだろう。
納得できないままに明日を生きることはできない。それが人間だ。
それは個人的な憎しみよりもさらに深く正しい行動だと思う。
皆、犯人が死刑判決ときいても実際は心底満足はできまい。
死んだ人は帰らないから。
勝ち取ってしまえばその心には「死刑判決 だからといってそれが一体なにになるのだ?」という虚しささえ漂うだろう。
だがそうだとしてもあるべき罰は下されるべきだろう。
私はそう思う。
それはただの恨みの故の戦いではなくあるべきものをあらしめる戦いなのだ。
光市の犯罪者は殺されるべき人間
死刑台におくらなくてはならない人間だったと思う。