また終身刑を作ってもなお死刑は必要という人は5割強らしい。
まあ、あくまで一つの統計にすぎませんけどね。
私は思うに死刑になるような判決が出る人は殺人を含む凶悪犯罪者でしょう。お金なんかはいくら盗んでも死刑にはならない。
江戸時代は十両以上盗めば死罪でしたけど。
冤罪の問題もあるので慎重にしなくてはいけない問題です。
でも人間の命くらい尊いものはないから冤罪でなくても死刑は駄目という人がいます。
「なぜ人間の命は尊いの?」という質問なんかしようものなら精神鑑定ものですが、でも実はここに重要な問題があります。
「そんなの当たり前でしょ!」で済ましては本当のことがわかりません。
こんなこと聞くと「じゃあ、あんた殺されてもいいっていうの?」といってこられそうですが、ちょっと待ってください。そういうけどアンタ、殺されるのが嫌なのは人間だけじゃないんですよ。そうでしょうよ。
秋アジだって最近おいしくなったサンマだって同じです。死ぬのは嫌なはず。
そう考えれば命の尊さは人間に限らないのでは・・・?
なぜ人間の命は貴くて、アジやサンマはそうじゃないんでしょう。
ここに重大な問題があります。
まず命そのものについては客観的に尊いの尊くないのという判断はあくまで二次的なものです。
社会的に有益な人物か否ですか?社会への貢献度?
しかし、よく考えるとそれまずいでしょう。
それなら働けない寝たきりの病人とかの弱者の命は比較して尊くないことになる。それだとおかしいいことになります。
まあ、最近それと近いこと、透析患者のことを悪しざまに言ってテレビ降版になったフリーアナウンサーとかいう愚かな人がいますけど・・・。
とにかく誰だろうと尊い。そういうことだとすると・・・。
問題は人権だの人命だのが無上に尊いというのは人間の社会の問題だと思うのです。
なぜなら人間は一人で生きられない群生動物だからです。
人には人が必要です。絶対的に。
人命が何よりも大事って私たちが人だから言っているだけなんだと思うのですね。宇宙の真理でも何でもない。大仰に言いなさんなといいたい。
だから自然においてはアジやサンマの命も人間の命も同じです。
そうでしょ。大津波が来れば人も犬も猫もカブトムシも一緒。自然は人間だけ大事な存在だといってそこは避けてはくれません。
人間2人以上いればそこには社会がある。実は殺人がいけないのは人間の「社会問題」だからです。
其れ許したら社会は崩壊します。相互の信頼でできているのが社会だからね。
社会の仕組みや法律もそれを土台としている。
もとより刑法とは国家、社会に対する罪についていうものです。
人間の命そのものが超絶的にほかの生命より尊いなら人間が地上に一人いてそれが死んだら「おおごと」ですか?まあ、人類絶滅は悲しいけど誰の「罪」ではないです。
人間同士が生きていく社会のうえでこそ「殺人」は特別に駄目なわけです。
命ということなら生き物は皆同じです。命は価値観でどれがどうのと測れません。
なぜなら命こそが価値の源なんですから。
命は皆同じです。
そう考えると自然界では鉄砲でキジ撃っても人撃ってもそれはおなじ行為ということです。
その辺キリスト教では神は人間の特別な創造物で唯一、魂があるなんて言うけどね。全ての動物は人間のためにあるんだそうです。
神の最高の創造別だろうと何だろうと死にたくないのは人も雀も一緒。
そういう論拠はキリスト教を信じる者だけの理屈。
クリスチャンの方はよくそう言ってきますが「あ、そう?」ってなものですね。
私には。
命が尊いの「価値の本源」だからです。ほかに客観的な理由など必要ありません。そんなのあってはならないのです。
極論すれば絶対に価値がある存在は客観的な価値などいらないのであります。相対じゃないからね。
さて人間のみならず社会を形成する動物にはルールがあります。
動物の社会によろしくない行いのお方はどうなるか。
面白いことに死刑はあんまりないのです。高等動物ほどそうなる。
蟻なんか、もう産卵ができずにいらなくなった女王アリなんかは食い殺すらしいけど・・・。ひどいね。
一番多いのは追放です。群れから追い出しです。
我々に置き換えると昔風に言うなら島流しですね。
私は死刑という問題は社会的な問題ととらえていますので、死刑も社会に有益ならあってもいいし、そうでないならいらないし・・・という考えです。
でも死刑のないイギリスなんかはたとえ、小学生でも凶悪犯罪者は顔や名前は出るわ、懲役はあるわ、でまず出だし、人間としてこうなっちゃおしまいですね。
日本じゃ人殺しの少年犯罪は、被害者そこのけで名前が漏れても、かわいそう…瞋りを感じるなどという慈悲深いお方も沢山いらっしゃるくらいですから、そこは死刑がある国でもイギリスなどよりはよほどご親切だと思うのです。