金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

神仏はやきもち焼きますか?

聖天様とほかの神仏を信仰してはいけませんかと時々聞かれます。
「どうしてそう思うのだろう」
私には不思議です。神仏はそんなつまらないやきもち焼くかなあ?
一神教の場合は並び立たないので駄目は判りますけどね。
聖書にも「私は嫉妬深い神である」と神様自身が言っていますからそうなんでしょう。

でも聖天信仰についていえば、それはむしろその人の心の中にある問題ですね。たぶん。
でも面白いことにそう思っているとそのようになる。
天罰が下って、「ああ、私は聖天信仰しているのに別な神様にお参りしてしまった。きっとお叱りだろう・・・」と思うのです。
でもそんなこと言うけどどこの聖天様までも聖天様しかいないお寺はまずない。
地蔵様はある。お稲荷様はある。お不動様も観音様もある。そんな所はざらです、じゃあ、そういうお寺では聖天様拝んでいる人はこちらは一切拝んじゃダメとか高札がしてあるでしょうか?
勿論いくつも同じ願いを方々にしたりするのは感心できる信仰じゃないですね。迷っているだけです。
こういう人は毘那耶迦信仰に陥りやすいからいいことはない。
でも、どこへお参りしようとお参りは構わないでしょう?
問題はすべて拝む側にある。聖天様にはないんだと思う。
たとえば、聖天様と○○様両方拝んじゃダメですか?いいでしょ。別に。
でも問題はなぜ新たに○○様を拝むのかという点です。
拝んでいいとか悪いというきまりはないです。
でも、たとえばアラーの神様と聖天様は無理ですね。思想背景が全くちがいますから。相互の宗教の宇宙観が相いれない。これは無理です。
でも同じ仏教の存在なら問題ないでしょう。
何様を拝みたいというより問題はなぜ拝みたいのか?にあると思います。
「実はとっても期待していたんですけど・・・聖天様だけじゃなんか祈願の成就が遅いようなので・・・」とかいうことでほかの神様をと・・・・いうんだったら、場合によってはもう聖天様キッパリやめて乗り換えればいい。
「なんてこと言うんですか!?」と言われそうですが、おっかなびっくりいい加減な信仰していても所詮本当の信仰にゃなりません。
正直そんなのならやめちまった方がまだしもだと思います。
叶わないんだから止めても聖天様は怒らないでしょう。
向こうだって用はないはず。
止めてもやめられないのが本当に縁があるということですから。
不信があるならやめればいい。
そういう意味では駄目はないけどいくつも拝む必要はないよね。
だからうちはすでに聖天信仰している人は前の霊場で拝んでもらって下さいといいます。
うちは講員になってもらっても、そこは前の聖天様への御祈願です。
だけどそこがダメだったから拙寺へという人も中にはいるのかも・・・。
でもね、大概は聖天様でダメだとどこでも同じなんですけど。
なぜなんでしょうか・・・・
これも問題は実は神仏の御利益のあるなし以前にこちらに問題はあるということなんですね。
ここ見落としてませんか?
仏教は因果論ですから果が尽きねば良くも悪くも状況は変わりません。
仏教は偉大な神様の御心によって一生懸命祈れば因果自体が変わり、ことが思うようになるという信仰ではないのです。
じゃあ、何のために聖天様に祈願するの?無駄じゃないか?と思うでしょうけど・・・無駄ではないのです。
ここに新たに聖天様という善因が加わって展開して行くということで別な角度から善果を起こそうとしているのです。
過去は変えられませんから前の因果はそのまま因果です。
たとえば重い病になると言う果があれば、そこにそれが亡くならずに助かってまた健康になるという果を生むように変化させていく要素が聖天信仰をはじめ、現世利益の仕組みです。
商売でだまされるという果があれば、だまされそうでも直前にだまされずに見破れるという果が加えられる。あるいは騙されてしまうがそのあとまたとりかえせるとか・・・いわゆる小難は無難に、大難は小難に・・・というのはそういうこと。

だからといって自分のもっている因果がすっかり変わってしまうということではないんです。
なぜなら実は因果の働きこそが我々という時間軸上の存在の正体だからです。
もし、そっくり変えられるというなら、それは別な人間になるということでしょう。
 そして聖天様に縁があるということと自分の願いが思うような形で叶うことも本来はまた全然別なことなのではあります。
ここ一緒にしていると間違いだと思うのです。