金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

妙と空

先日来チベット仏教の講義を受けていて思うのはやはりどこまでも「中観」なのだなと思いました。
特にゲルク派はその点が明瞭だそうです。
ここで思い返してみると、中観思想が「空」ということであれば天台法華の思想の中心を一文字でいえば「妙」ということになります。これは存在の摩訶不思議な働きのことです。
ただしこれは日本独自の思想といってよいでしょう。
般若経では「空」というものはどちらかというと求心的に真理を求めた結果でしょう。
存在の本質を求めていくと「空」に行きつく。般若心経でいう空ですね。中観思想を端的に言うならはこれです。
有無の二偏に偏らないので中観というのだそうです。
ところが天台の思想でいう中観は少しニュアンスが違う。
勿論、元々天台の初祖である慧文禅師は竜樹菩薩の「中論」から中諦の思想を生み出したとも言いますが・・・。
竜樹菩薩を八宗の祖と考えれば慧文は二祖ですね。慧文、慧可そして天台大師智顗となる。
それくらい「中論」が根底にはある。
中国天台六祖の妙楽大師があらわした「法華玄義釈籤」の「十不二門」なんかみるとやはり有無のニ偏を嫌うんだなと思う。
でも天台では化儀の四教のうち「別教」と言われる大乗の菩薩独自の思想であるとする般若経の「空」の上にあえて法華経を立てますから、あきらかに天台は空の思想として終わるわけではないんですね。「圓教」の法華がある。
じゃア圓教である法華経の言わんとすることは何でしょう
それが「妙」。
空であるべきものがただ「実体がない」というのではない。
裏を返せば宇宙として現に表れ千変万化の働きをしている。そちらの方から見ればそれはそのまま「妙」ということです。だから「空」を否定している訳じゃない。
「空」で終われば現世には否定的傾向。有無の二偏に偏らないというけど、どちらかというと無の方へ行く。つまりこれだと「世間虚仮」ですが「妙」なら「現世」の肯定です。
見方を変えれば寿量品にある「我此土安穏天人常充満」ということです。浄土ほかに非ず、このまま四土不二の常寂光土ということになります。
「空」と「妙」は違うものではないけどとらえ方で全く違うものになってくる。図地反転。
空のリフレーミングがそのまま「妙」ですね。
私はそう思います。