金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

見極めなき許し


寛容さは宗教では大切にするところですね。
仏教では懺悔を受け入れないのは戒に反することになっていますし、キリスト教でも七遍過ちあれば、それを七十回許せといいます。
でも、無条件に許すのは難しいなあ…と思っていたら、飯縄様は「見極めなき許しは愚痴の所作なり。」ときました。
なるほどね、人を許すのにも責任が伴いますね。

ただ、ただ、許さなきゃ駄目だとばかり思って、相手がどうであれ無条件に許し見逃してていたら、その結果は自分が裏切られたとか言うレベルではなく、世間の人にもエライことにもなりかねないかも。
でも自分の罪悪感とリンクしているとそういう方向にひたすらに引きずられていく。
あるいは人間なんて悪い人はいないんだよね。本当は・・・
と思いたい。
人を信じたいから?
人を信じればこんな自分も信じられそうな気がするよね。
だからかな。
少なくと私自身はそんな気がする
許してあげたい人は本当は自分が許されたい思いの人。
厳しく罰したい人は自分が厳しく罰されてきたという思いの人かも。
もちろん仏教的にもどこまでも悪のための悪の存在はない。
第六天魔王も一抹の慈善根を宿すという。
でも・・・逆に言うなら良いばかりの存在もない。
仏にも性として悪はあるというのが天台の見解。

でも愚かだと人はどんな意識的に行う悪よりもどでかい悪になる。
自分がただ、許さなくては・・・だけじゃなく、そうしたら結果どうなる?と思うところまで考えが行かないといけない。
見極め。
難しいがやはり許す心とともに、どうしてもこれが必要なのだと思う。
悪か善かの見極めというより。。。むしろそれは愚かなのかどうかの見極めでしょう。
悪は結局愚かさの先に咲く毒の花なんでしょうね。
だから花だけおっても茎を折り根を起こさねば同じこと。
だから犯罪をなくすのも罰せられるからしない。刑務所行きたくないから…というのは本当には犯罪がなくならない。
もしそういうペナルティがなければ良くないといわれる行いでもしたいわけだからね。
本当にはそれが愚かなことと思わなければやまないんです。
本当に愚かなことだと思えばやれと言ってもやらなくなる。
だから愚かさの根を起こすことが大事。
そのための見極めです。
自分のためにも、
相手のためにも、
世間のためにも・・・。