金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

ありがたいのはどこのお不動様?

今回は所用で本山に日帰りです。帰りにちょっと仏教美術関係のある人にお会いしました。
この方は新宗教の信者さんだそうですが、聞けば最近疎まれていてくさくさしているらしい。
どういうことかといえば、いろいろその宗教の支部だかなんだかで「質問コーナー」がある。でその方が質問すると「あんたは理屈ばかりだ。そういうのはいけない。」といわれてしまうのだとか。
どんな質問をされたのかと聞いたら「教祖様を念じなさい」( 教祖様は亡くなっています )ということなので「・・・お不動様じゃダメなんですか?」と質問したらしい。
なんでも仏教系なのでお不動様もお祀りしてあるということです。
その人に言わせると手が合わさるのは人間である教祖様よりほとけであるお不動様なんですね。
ま、ここは私はどっちでもいいと思う。弘法大師やパドマサンババのような実在の人の方が身近に感じられるのでいいという人もありますからね。
かといえば私みたいに飯縄様や聖天様のように人間離れしてる方にカリスマ感じるとか・・・
人の好き好きです。
で、その方ですが、「あんた、何言っているんですか。そんな変なこと言って。ちゃんと教祖様のご本を読んでいるの?」と叱られたそうです。
また稲荷因縁があるからいけないと言われてもいるらしい。
それで伏見のお稲荷さんに行っていいかと言ったらまた叱られたそうです。
「ここにも立派なお稲荷さんがあるのに、何しにそんなとこに行くのですか。」
「でも、いってもいいですか?」
「必要ないと言っているでしょう。」というくりかえし。
「お稲荷様はお稲荷様で同じでしょう」
「あなた、なにを言ってんの!変な理屈ばかり言って…」とまたまた叱られる。
私は人の信仰にはケチはつけません。本人が疑問に思わないならね。
何様をどう信じようがお互い知ったことじゃないですから。
でもこのケースはそうじゃないですね。
もう疑問点にぶつかっている。そして「どうなんでしょう」といわれればそっぽ向くわけにもいかない。

で、私が思うには下世話な言い方で申し訳ないが結局、関心が外に行くのが困るんですね。教団としては。
そうなると儲けも外に行ってしまいますから。
教祖様ならそこにしかいないけどお不動様やお稲荷様ならよそにもいるしね。
「・・・私、間違っていますか?」と聞かれたので私は言いました。
「エエ、それは間違っていますとも!何が間違っているって?貴方の質問じゃないですよ。あなたみたいな人がそんなところに行くのが間違いなのです。それがそもそもの大間違い。」といいました。
新宗教もともすると既成の神仏の権威を利用しますね。
でもそうするとともに独自性は失われる。この矛盾を何とかしないといけないというのが新宗教側の問題です。
そこで既成の神仏でありながら、よそとは違うという独自性も歌わないといけない。そうでないとこの人みたいな疑問は当然出てきます。
「お不動様はありがたいですよね。」というところから始めておいて「でもうちのお不動様が一番ありがたいんですよ。」というところへもっていく。ハッキリ言えば「よそのお不動様は駄目です」ということ。
これは明らかな矛盾です。
そして誰もが知っているありがたい神仏がここでは教祖様の二番手ということで権威づけにもつかわれていますね。
そうでないと教祖さんが偉い人といったってどれほどえらいのか門外漢にはさっぱりわかりませんから。
そこでお不動様が二の次になるくらい偉いというとよくわかる。
だから、極端な話お不動様は拝む対象というより比較対象として祀られているのかもね。

ま、こういうこというと営業妨害的ですのであまりいいませんけど・・・
そこがわかればこの手の「からくり」は簡単にわかるのですがね。
とはいえ、新宗教だから駄目だというつもりは毛頭ありません。
自分に適合していると思うならやればいいでしょ。
でなきゃ辞める。それだけの話。
うちも時々そういうのの信者でもある人がきますけど、要は拙寺の信仰が受け入れられるか否かの話。
今までの宗教と矛盾するんです・・・というならうちは信者になるのはやめときなさいよというわけ。
別によそ様、辞めさせてまで来てもらいたいなんて気はさらさらないです。矛盾したまま入信されても困るしね。
だからやっていたい人はどうぞ。でもうちは来ないでねというお話。
そういう面倒くさいのやどっちつかずでグズグズいうのは嫌いなので。
教団というのは日本じゃ800件以上あるんだそうです。
よりどりみどりですものね。
そりゃ迷うのも無理ないかも。