金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

諸仏の言葉は異なることなし

あっちの聖天様がいいと言えばすぐそこへ行き、こっちの聖天様がいいと言えばすぐに飛んでいく。
はたまた荼吉尼天?今度は宇賀神?お次は三面大黒天と走り回る。
それでご利益がないと嘆く。終いには神仏を恨み罵る。
どんなものだかね。

昔こんな話があります。比叡山で修行するある僧侶が「山王権現」を深く信仰していました。
山王権現は比叡の守護神です。
彼は大変貧しかったので日夜に財福を願いましたが、いくら熱心に拝んでも一向に暮らしは良くなりません。
決して信仰が薄いとは思わない。なのに…なぜ?
あまり良くならないので、業を煮やし知人に相談したら「財福と言えばお稲荷さんこそ頼むべきだろう。」と言われ、早速伏見にお参りしたそうです。
そうしたらその晩、夢の中に稲荷の壮麗な赤い社殿があらわれました。
それは伏見の稲荷社だったといいます。
そして社殿の扉が開き、そこには稲荷明神が現れていうには「汝は今日は良く参ったのう。誓願によって望むところの財福をとらすぞよ・・・」
僧は「実にありがたいことだ。願ったり叶ったりだ」と一心に伏し拝むと・・・
「…あいや、しばらく。」という声。
その方を見ればいつのまにか、衣冠束帯の山王権現がいます。「稲荷殿、その者に福を与えるのはやめてください!」
「何故でございましょう。」
「この者に今福を与えれば必ず欲に染まり好い僧侶にはなれないのです。私はこの者を育てるため、あえて財福を与えませんでした。」
「相分かり申した。では御免。」お稲荷様は去っていきました。
さあ、この夢を見た僧侶はその後、貧しさは相変わらずでしたが、それに負けずに修行や勉学に打ち込んで、ついに名僧知識と呼ばれる立派な僧侶になったとのことです。

よく、ここで叶わなければあちら。あちらで叶わないならこちらという方がいますが「験なきこそ験なりけり」ということもあるのです。
法華経には「諸仏の言葉は異なることなし。」といいます。
信仰を無暗に移さず、今ある状況から必要なリソースを引き出そうという心こそ正しい信仰だと言えましょう。

ですからうちはよそで聖天様の信仰している人には聖天様の御祈祷はしないんです。講員になってもそこはしない。
実際そういう形で講員を続けている方も何人かおります。
何か問題があるとか、よその聖天様になにか格別な縁を頂いたということでないなら、聖天様は最初に祈願をしていただいたしたところを大事にしましょう。
それ大事です。