金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

法は人也。人は法也。

伝法とは法を伝えることですが、密教ではこれが必須です。阿闍梨さんからお授けしてもらう。
ハウツー本で密教を学べるわけがありません。
ごくまれに何とかの印について質問があるというような電話をもらいますが、流儀による違いもあるので「伝授ではどうだったのですか」と聞いてみると、お坊さんではなく、修験者でもなく、まったく在家の人が本で印相を調べて、わからないところを聞いてくるケースもある。これは駄目ですね。
また密教法義について聞いてくる。もちろん何も具体的なことは教えられません。
密教の「三昧耶」に抵触するからです。
三昧耶って何でしょう?
これは「平等」という意味ですね。
仏と我と平等ということです。
なぜ、それが自分で勝手に印相を結んだりするとまずいのでしょうか?
要は観念的に仏と我が平等だと思えばいいんだろうと思う人もいるでしょう。
でもそれは違います。
間に阿闍梨という「法の体得者」がいて初めて成り立つのです。
本なんかだけ見ても駄目だから「密教」すなわち秘密の教えなんですね。
秘密とはひとつには「人から学んでください」という意味。
そして、なぜ人でなくてはいけないか?
ご説明しましょう。
法とはそこに強い「縁」というものが働いて初めて伝承されていくからです。本をみるのも縁と言えば縁ではあるけど、本屋へ行けばどこでもだれでも手に入るものと一対一で人と人との出会いのうちで伝えられるものは全然違うんです。


伝授を受けたい修法なども伝承者がなかなか見つからなければまだ縁がないんですね。だったら伝承者が見つかるまで探すのが本義です。縁とはそういうもの。
(真言は伝授により、天台は儀軌によると言って天台の場合は儀軌から阿闍梨であれば次第を起こせますが本義はやはり伝授がいいでしょう。)
本なんかだけで、みようみまねで護身法なんかやっている人は伝授しても法は至って効きにくいですね。伝授自体を侮るから本でやっていたのだから矛盾するわけです。
自分のなかで。
伝授を重く見れば今までの自己否定となるし、かといって伝授を軽く見るならそれ自体意味がなくなる。「両天秤」の矛盾構造です。
だからそういうひとには原則伝授はしません。
一回懺悔しないとそのまま伝授受けても無駄ですので。
在家の方でも阿闍梨さんからきちんと伝授受けていれば違うわけです。

法を受けることは阿闍梨さんの人格も受けることになると思いますね。「法水写瓶」といって瓶から瓶に中身の水をうつすのと同じだとされます。三井流の次第でいう「守護師迹」という文句も同じことです。
密教は外儀だけじゃない。教えが大事です。
ですから、厳しい阿闍梨さんから習えば、法はそのように働くし、おおらかな阿闍梨さんから習っても同じくおおらかに働くのです。
だから、まともな阿闍梨さんから習えば悪事に法を使っても効かない。かえって三毒の激しいことを祈って法を修すれば、法から厳しい冥罰を受けるのです。
師を侮ることも同様です。
私は入門したころ師匠に蘇悉地経の中にある「師の短を伺うなかれ。阿闍梨の科を言うなかれ」というのを教えられた。阿闍梨さんをあれこれ批評したり、自分の考えで評価してはいけないというんですね。
これを聞いて内心「ずいぶん都合のいいこと書いてあるな。」と思ったら「なぜだか教えてやる。伝授者を侮れば法を侮るのと同じであるからだ。そうなれば法はもうきかないのだ。師も人間であり、間違いもあれば欠点もある。弟子が師匠を高みに見て一々批判していたら伝授を受けるべき相手などいなくなるのだ。」と即座に言われました。
つまり法は人なのです。
その阿闍梨さんの生き方考え方が入ってくる。それが三昧耶ということ。
法を受けた人には自然にそこに仏からの導きが働いていくということです。本なんかで見たってこれがなければその法には命が入ってないのと同じ。
だから増上慢で自分の師匠を侮ったりすることは法からの罰を受けます。自動的にそうなる。
それが法の威力であり功徳です。
悪い弟子は師僧がわざわざ調伏なんかしないでも、自らの法からの罰で自滅するんです。そうでなければならない。
例えば伝授の阿闍梨を侮らないけど、自分の法の親たる師僧を侮るなどということも三昧耶をおおいに破ることです。
決してあってはならないことです。
 
これは広くは顕教も同じです。
師を侮るのは法を軽んじることと同じなのです。
人は法也。法は人なりですから。
そういう人物はたとえいかに優れた高徳の阿闍梨から法を受けても成就はしません。
「法水写瓶」の心がないからです。