こういう質問を初行のお弟子さんからしてきたことがあります
「お世話になっております
理趣分をしていて、疑問に思ったことが御座います
修験の理趣分は洒水作法と供物への加持の後に護身法をするように教えていただいたのですが、
場の浄化をする時は自分が浄まっていないといけないと思うのですが、
護身法もしないまま洒水するので、何の観想もないまま、仏さまに洒水する事になってしまい、仏さまに対して失礼な事になってしまうのではと気が付きました
普段と同じように護身法を先にするか、被甲護身までを登壇の先にするべきではないかと思うのですが、どうなのでしょうか?
何か失礼な事を申し上げたら申し訳御座いません」
これは今年の夏です。
この人はほかにも色々あり、考えた末やめていただくことにしました。
言い方は丁寧ですが伝授について詰まるところ、「あなたは間違ったことを私に教えていませんか?」と言っているからです。
内容は極めて無礼です。
伝授は礼禄は頂いても商売ではないのでカルチャーセンターの習い事みたいに思うのは大間違いです。
自分の教わる身を措いて阿闍梨に「間違っている」とただすようなエライお方を弟子にはしておけません。
しかしながら、このひとの疑問自体はわかるのです。
だから、この聞き方も「登壇の前に護身法はいらないですか?」といえば「いらない」でおしまいです。
でもこの聞き方では「仏様に対し失礼なことになると気が付いた」といっています。
これでは「あなたは仏に礼儀を欠いた作法を教えたのだ」という意味にしかなりません。
この人はまず言われたとおりに行うということができないのです。
私の修行時代は「伝授阿闍梨がカラスが白いといえばそうですといえ。」と言って注意されたものです。
又、蘇悉地経には「師の短を窺う莫れ」ともあります。まず失格です。
ちなみにこの作法は何も間違っていません。おそらくこの人は密教の四度行軌にある房中作法を勝手に見てそう思ったのでしょう。あるいは他流の作法を見て批判してきたのだと思います。
修験道の作法は密教の作法とは必ずしも同じでがない。
だから「房中作法はしないでいいか?」と聞きたかったのでしょう。意図することはわかります。
それはそれでいいのですが批判的なアプローチを展開してかえって墓穴を掘りました。
「聞き方ひとつで首が飛ぶんだ!むごい」と思う人もいるかもしれませんが。私はそうでなければ人前に出せる行者にはなれないと思っています。
他のことならまだ構いませんがこと「法」に関しては絶対にダメです。越三昧耶です。
これがもうこの人はダメというサインなのです。
残念ですが理趣分700座を超え九字まで授かって自分の業ならぬ自分の仏縁を切りました。
この人も2020年から4年ほどいましたがもう行はさせられない。
同じような感覚の人を見つければ同断です。躊躇なく弟子から外させていただきます。
この厳しさあってこそ、いままで多くの教会主管者や住職を輩出できたのだと思っていますので。