金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

祈願を止めたら病気が治ったお話


ある方が子供さんのことが心配でずっと祈願してきました。
毎月毎月、月参りしてお札を祀っていました。
別に問題という問題はないんです。ただ学業とか日常が心配。
でも病気して体が言うこと利かなくなってきて、子供さんから「宗教はもういいから、お母さんは病気なんだからそのお金は自分のことにお金使ってよ。」といわれた。働いていないから余裕がなくなっている。
実に感心な子供さんですね。
でもそのことで親子で話が合わない。
それで今後どうすべきか、相談に来られました。

「そうね。本人がそういうのだし、じゃあ、子供さんのご祈願は止めましょう。」と言ったらおどろいて「そういう訳には…?!」という。
でも、それは子供さんのことでなく、ご自分の心配事として考えて拝んだらいい。子供さんは子供さんです。この子供さんですが正確には20代の息子さんであって、若いには若いけどもう年齢的には「子供」ではない。.

これはアドラー心理学でいう「他人の課題」です。
これが手放せていない。しょい込みです。
「子供のために絶対やめられないんです。」というけど、だからこそやめて頂くのです。
そういう話して今までずっとしていた子供さんの祈願はやめて頂いた。
祈願はあくまで自分の祈願だけ。
 
そうしたら健康も急速に良くなってきました。
しょっていたのを下して楽になったんですね。
それまでは母という責任が高じて一種の罪悪感にまでなっていたのでしょうね。
だから病は自分攻めに必要だったんですね。
それをやめてしまった。
やりくりして子供さんの祈願するのも自分攻めになっていた。
もうそんな自分攻めは無意味で必要ないんだということです。

結果、祈願を止たら病気も良くなったというお話です。

祈願は「絶対やめたらやまずいですよね。」とか「これ頼んだほうがいいですよね。」としつこいくらい聞いてくる人いますね。
そんなの自分で決めたらいい。
承認欲求が強いのかも。つまりお寺やお宮の人からオーケーもらいたいんですね。「そうそう!絶対必要だね。」といってもらいたいのかな。
そういうなれ合いだけで成り立っていいる気色悪い道場もあるかもね。
祈願頼んで先生を喜ばしたい。そんなもの無用の心がけです。
誰のために祈願しているの?
自分でしょう。神様や仏様のためじゃないですよね。
基本的には人のためでもない。
赤ちゃんや児童や寝たままの病人やワンコやニャンコは別だけど、その人はその人で祈願すりゃあいいんです。
陰ながらお祈りするのもいいけど…それは文字通り陰ながらでやめとくことです。