金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

受け皿

今朝は学習上の障害のあるお子さんの受験を面倒みている弟子から電話がありました。
目的の話の内容は関係なかったんですが、これは余談で出た話。
学習障害の子たちって面白いんですよ…私にない能力とかあるんだなと思う。すごいと思う。」というような話。
何でも有名大学にまで行けるよう指導しているというからその弟子も大したもんですね。
私なんかとってもいかれない大学です。すごいね!
そう考えると障害って何だろうね。
首をかしげたくなる。
アスペルガーなんかも天才肌には多いと聞きますね。
障害と言われていたものも社会という受け皿自体で変わるものも多い。
もちろん程度の問題でどうにもならないものもあるだろうけど。
例えば何かしかできないとしてそれを早期に見据えれば。行く末は大きな果実を得られるかもしれません。
逆に、そういう人がやみくもにあれもできなきゃダメ。これもできなきゃ駄目という社会の評価をひたすら信じて苦しんだ挙句に何にもならない人生に送ることもあるでしょうね。
人間てニワトリの品評会みたいにして評価できるもんじゃないんだと思う。
それをやって失敗したのがナチス・ドイツ
総合的に優れた人間というものを作り出そうとした。
でも優れた人間というのは能力じゃない。
うまく生きていくのが優れた人間だという発想が大事だと私は考えます。
人間とアリはどっちが優れている?
頭脳でいえば比較にならない。
でも上手く生きるということの選択肢ではアリは人間より間違いはすくないでしょうね。
知的であることはうまく生きることとイコールではない。
大体人間の脳みそって生物学的に必要以上に大きいそうです。
無駄だという学者もいる。
だからそのために直立しないと支えられない。
将来、知的生命体が他の天体から飛来することがあっても四つ足やイカ、タコ型は考えにくいですね(笑)
もっともその星の大気や温度、重力などの環境次第でこれはいくらでも変わるだろうけど、そういう地球とは全く環境の違うとこから飛来しても生きていけないし、住みにくいし、興味もないでしょう。
だからそういう他天体の方々はH・G・ウェルズの書いたSF小説「宇宙戦争」みたいに地球を征服しようなんてことは全然思わないでしょうよ。

これは、もともと勉強嫌いで学習能力の低い私の偏見であると承知の上でいいます。
偏差値がどうの、成績がいいの悪いのなんてのはそれだけのこと。極論するれば猫や鶏の品評会で優勝するのとそう変わらないかもと思っている。
そうやって優れた学校に入って優れた会社に行って…でも下手やってジ・エンドになるやつは沢山いる。あんなことまずいとなぜあんな頭のいいやつがわからないのか?と思うようなバカをやる。結果、うまく生きられない。
 だから、偏差値だの一流大学だのという偶像を作り出して、その規格に合う人は「すごい人」っていうのは極端に言えば一種の迷信だと思うんです。
勿論すごいはすごいけど一面でしかない。
走るのが超早いとかいうのと基本一緒かも。

でも問題を一切見ないで「障害じゃなくそれはみんな全て個性なんです!」なんて言い方も欺瞞に満ち満ちていて好きじゃない。
そんなの何も生まないね。多分。
そうアンタが思いたいだけ。
ただし、障害は障害にも個性にもなる。これは確かにそう思う。
可能性ということです。
受け皿とあり方次第でとは思うのですが。
だからそういう社会作っていくこと。
いいかえれば多様性の社会を作ることこそ私たちの大きな課題ではないでしょうか。
ある要件だけが重要視される非常時でもない限り、社会が理想的な人間はこれだと提示してそれに向かってみんなが進むという時代はもう終わりでしょう。
社会が人間に合わせていかないといけない。
詰まらない例え話ですが、たとえば漢字の書き順みたいのに徹底して正確であろうとし、そうでないものを否定するようなことはナンセンスだというのです。(ちなみに漢字の書き順は文部省が勝手に決めたものだそうですから)