金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

悲願は叶わない

ときどき「他のことはどうでもいいんです。でも、何としてもこれだけは絶対に叶えてほしいんです。」という人が来ますが・・・「わかりました。じゃあそれだけはなんとかしましょう。」なんてことは私にはとてもいえません。
そんな創造主の神様みたいなことできるわけないでしょ。
一応「なるほどですねえ」って聞いてはいますけどね。
「よっしゃ分かった。まかしとき!」ってことでは全くないんです。
「まあ、祈ってみます。」というだけ。それ以上でも以下でもない。

それとね、「これだけは!」という悲願はえてして叶いにくいものです。
それにはわけがあります。
なぜなら、自分の認識の中でそこは時間も空間も止めてしまっている領域だからなんですね。
つまり「なんとしても」ということは「時間や空間がどうあれ」とか「関係なく」ということと同じです。
そうなると自然にものごとが流動して叶うべきものも動きがとれなくなる。
そこも本当は時間空間の流れがあって到達すべき場所の一つでしかないのだけど、つまり因果によって到達すべきところが「因」も「縁」も絶してしまうので、そこだけ避けて流れるようにしむけているんですね。当然「果」はないし、「果」がないなら「報」はないわな。
つまり時空の「しこり」となって取り残されるんです。いつまでも。
皮膚が新陳代謝してもそこだけいつも変わらないお肌の「シミ」みたいなもんになってしまう。
勿論これはイメージとしての表現ですよ。
結局、何年たっても叶わないという説明のたとえ話です。
だから絶対叶えたいという歯の食いしばりなんて実際な~んにもなりまへんわ。
行者でも、信者でもそこは一緒。
「叶ったらいいな」くらいのワクワクした気持ちの方が叶うものですよ。
「絶対叶えたい」は「絶対叶わない」とこころの奥では大して変わりません。