金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

布施の前提

昨日は銀座のあるインド料理店でN・リンポチェによる財宝神ジャンバラの開眼供養があり、大勢の皆さんと随喜しました。

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そもそもはこの店のオーナーさんがジャンバラ尊をお祀りすることに。
オーナーさんもチベット密教の修行者ですが、どうも心のどこかにお金をうけとることに一抹のわだかまりがあったそうなのです。
…だからリンポチェからジャンバラ尊を祀ればという御話があった時は少し驚いたそうです。

集まったのはリンポチェのゆかりの方、お店にゆかりのある方、色々な方々ですが私達のグループ?は弟子含め5人で出席いたしました。
ジャンバラはチベット版毘沙門天と思われていますが、正確にはその子供だということです。しかも八眷属の一人でもある。
チベットでは毘沙門天はやはり四天王の一人で純粋に護法神の性格が強いようです。正統派?護法神の鑑みたいなお方かも。
金光明最勝王経に毘沙門天と行者の仲立ちをする「しゃにし」という御子神が出てきますがそんな感じ。
ありがたいことに簡単な成就法も伝授されました。
お料理もおいしかったし大満足。

思うにお金は流れです。ものではない。
よく聖天信仰でも言われるのはお礼を惜しむのは禁物と言います。
それはなぜ?
…別に坊さんがたんまりもらいたいので言い出したわけではないと想う。
それはたぶん、入ってくるものを大きく出すことにより、さらにその人の福徳の器が広がるからなのだと思うんです。
お布施と言ったらお寺ばかりとは限らない。医療機関、福祉機関なんでも世間のため、人の為ならいいんです。人じゃなくても動物の保護目的でもいい。一切衆生ですから。
例えば聖天様拝んだら、臨時で100万円入ってきた。ヨーシ絶対減らしてたまるかという気持ちは100万円の臨時収入なんてもう二度と手に入らないという前提があるわけですよね。
それ作っちゃったら後は出るを制するのみ。
でもそれじゃお金の流れは止まってしまう。せきとめちゃうんです。折角の流れを。こうなると逆の方向に流れていく。だから吝嗇は貧乏への道。
別にバチじゃないんだね。より、お金が入らなくなる構造を自分で作りだしているわけです。
お金が入れば入るほどケチになる人いますね。でも終いには全部なくなります。
勿論お金は大事です。無駄遣いはいけませんが、大きなお金を手に入れたら気前よく布施するというのは、それでお金が出し入れできる前提がそこに形成されるわけです。

たとえお金を手にできても、ひたすら地底で財宝を守るドラゴンみたいになっていてもお金は活用できないですね。