金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

何故、霊障の相談が嫌いなのか

昨日の続きです。
日頃、霊障の相談に冷たい私。
そういう話が嫌いというより霊なんかいないと思っているんじゃないのかと思うだろうけどそんなことはないんです。
あるいは霊的パワーがないとか…。ま。それはそうなんですね。そういう特殊な力は、別段なんにもありません。手からエネルギーが出るというのもないし、強烈な念力で霊を追い払うもない。あるのは法のみ。

注目したいのは何故、霊障になってしまったのでしょうか?という点です。
そこを考えてもらいたいんです。
なにかまずいことやってしまった。
人のお墓を勝手にいじってしまった。生き物を無暗に殺してしまった。
お稲荷さん撤去するのにお祓いしていない。
先祖が冷酷な仕打ちをしたり、あるいは強欲でしたので人様を今まで泣かせてきました…というように、なにかしら御当人が心当たりや原因が想定できる場合はこれからお話しする対象の方々とは別なんです。そういう相談は全く嫌ではない。

私が困るなあ…と思うのはお稲荷さんの神社の前をとおったから狐がついて来て乗り移られたんですとか、会社で私のこと気に入らない子がいて生霊飛ばすんで苦しめられているんですとか、電車の中でいつも霊が見えたり、いつも声が聞こえて会社や学校にいけませんるとか、そういうの。
つまり呼び込み型です。そういう方々は挙って私って相当霊感強いんで…と言っているけど本当にそうでしょうか?しかも前提まで決めてくる。
「○○のせいなんです。」判断無用。
それで私にはただそれをとってくれという。
ま、確かにいますどね。ほんまもんの霊感体質。
で、本当にそういうタイプ(体質)の方の場合はただ、お祓いやお加持なんかしたって治りませんよ。
…でも、そういう人ばかりそんなには多くないでしょう。

私が日ごろ霊障のご相談が嫌いと言いますか、とても「気にくわない」と思っているのは拝めば霊が離れて楽になる。
それで「よかった。おしまい」ということが気に入らないという最大の理由なんですね。
本当におしまいならそれでいいんだけど・・・
そういうのってそのままよくはならないんです。
それでまたなったら取ってくれという繰り返しになるんです。
そういうの山ほど見てきた。
それでは、全然人として進歩がない。
気づきも悟りもない。イタチごっこです。
仏教の信仰になっていかないんです。

でも、そういうの好きな行者さんもいるよね。「私、霊的パワー強いので…」みたいな腕自慢の先生。悪霊よ、かかってらっしゃい!みたいな先生。
ゴーストバスターズか、ゲゲゲの鬼太郎みたいの。罪もない人を苦しめる悪いお化けをやっつける!すごいね。
でもね、ハッキリ言って罪ないわけじゃないと思うのです。やられている側も。
罪というとニュアンスが違うけど自分に原因がないわけでないということ。

私も若いころ大分そういうので苦労したんですね。本当は。
で、自分もそうだし同じような人もいっぱい見てきた。
でも本当に良くなるのには人間修行して上に行かないと駄目なんですね。
本当の解決はそれだけ。
そうでないと本当には良くなりません。
ハッキリ言って霊障に苦しんでいる私は人間としても評価できない私でした。もし、そのころの私が訪ねてきたらこっぴどく文句いってやると思います。

まず、意識が自分にしか向いていない自分がそこにいたんです。
「お前はそうだろうが私は違う」という方もいるでしょうが、見てきた限りはほとんど違わないね。
だから、頭の中は自分のことしか考えていないし、何かしら人にしてもらうことしか考えていない。それで自分が好きじゃない。いつもできないことの言い訳が多い。何も実際は腰上げないので想像だけ、だから実際にできることとできないことの区別もよく分かっていない。
だから望みだけはでかい。
そういう構造。
人によっては理論武装は得意で私が働けない百の理由は言えるけど働くことはできないという感じの方もいます。

霊障キツイとかいう人は「働いていません。お金ありません。」という人多いですね。霊障がキツイので働けないとか言うのもある。
それでも、人には要求はしっかりとしてくる人がとても多い。
そういう人の場合、本当は霊障キツイからじゃないんです。
基本、人と調和できないんですね。霊の障りがあるからじゃない。
調和できないから、うまくいかないと思うからそこに呼び込み型の霊障が形成されるんです。
自分責めはしても自分のことしか考えていないので。
だから働いても続かない。
ちょっと、注意されたりすればショックでもう出てこない。
しかも本当には反省がない。
自分責めはしても改めないのは本当に反省していないから。

で、そういう方は何故霊障が起こるのかですが、本来自然に誰でも持っている霊的なものに対するバリヤーも働いていない。自分が確立していないから。ウイルスバスターのないコンピュータみたいなもの
なぜそうなるかというと、つまり自分と他人という境界線があいまいなんだわ。

幼児がちょうどそうですね。
霊に敏感というのは境目がないということ。
だから子供の中は不思議体験する人は多い。
成長した後ではもうそういうことないんだけど…でもあれは断じて錯覚や妄想なんかじゃない。
そうではなかったという体験です。
今でもそうだというのはそういう境界線ができていないままということ。
もっとも専門の霊感者になるには意識的にそれをとりはらうことができないといけません。取り外し自在の能力が必要。
そうでないと霊的領域に入っていかれないから。

境界があいまいなのは子供、女性、男性の順、だから寄り童は子供、巫女さんは女性。
女性は心理的に隣接距離は男性より短いんですね。ようするに排他的空間が狭い。だから男性より霊感者は多い。受動的なんです。
女性は男性のかなり近くまでいっても排他的空間が狭いので、普通の気持ちなのですが、男性かみるとはそうじゃない。自分のエリアには入ってこられてしばしばドキドキする。それでバカな奴は此の女性は自分に気があるとか、惚れられているじゃないかと勘違いするんです。アホやね。(笑)

実は矛盾をはらみながらも、どこまでも自分の延長になっている。
ある意味、成長していない部分がある。
そういう、あいまいな境界線を乗り越えていろいろなもの引き込んでしまう。それで責任は皆、ひとのせい。「あの人が念飛ばしているんです・・」とか。
好悪の感情をそういう念というならなら誰だってみんな飛ばしてるよね。
何時だって、
今だって。
日に何千何百とひと通りのある道で、稲荷神社の前だからといってどうして?なんの理由であなただけに狐が乗り移るのでしょうか?
なぜかというと自分というものの輪郭がアバウトになっているからです。

だから「お加持」や「お祓い」とかより、そういう方にはきちんとした自己の輪郭の確立、アイディンティティの確立こそが必要なんです。
拝むだけじゃそんなものできませんよ。

でもなぜか、自分ではそれができない。
自分を見つめられないから。
見つめたくない。
自分の弱いところを正しく見ないんだね。
見るのは嫌。見たら自分がもっとみじめになる。だから、それを見ないで別なものとすり替えてきたんです。
要するに霊障にはそういう言い訳、利得がある。
ところがお加持したりお祓いしたりして一時的にでもよくなると、ここぞと必要なのはそういう霊的な処置ばかりだと思ってしまう。
御祈祷することが、かえって本当に解決する道の邪魔になるんです。
それでよりそういう霊的パワーの強い人探しの旅が始まってしまう訳です。 

私はそれがいいことだとは到底思えないんです。
だから嫌なのはそういうこと。拝んだって無駄ですから。

色々聞いてきて・・・「お金は全くないんですけどなんとかして・・・」という方。
その考え自体が幼稚です。
「高いですよ。一回一万円です。本当に御祈祷やってほしいなら、まずそのお金を作ってから来てください。」と言います。
冷たいですか?
強欲でしょうか?
どう思おうといいんですが…気の毒だから無料でやってあげようと思うことはためになりません。
結果はなんの助けにもならない。
実際たくさん過去にそうやってきたので知っています。

無料でお祓いしてもらうより、つらくても働いてお金を作るということの裏には必要な経験や学びが山ほどあると思いますよ。
成長できます。
辛い?当たり前です。
でもそれが生きるということ。私だって辛い、誰だって辛い。
でも、それが生きることの姿。
それが娑婆です。
生きることの辛さは、なまなかな霊の障りなんかに比べられません。
実はそういうレベルの人はたぶんそのお金作ったら逆にもう、うちなんかには来ないでも大丈夫になると思う。
 
だからあえてそう言うのです。