「業を洗うということは不浄を嫌わぬということひとつ。不浄を嫌わぬということはありのままをみることとひとつ。ゆえに鏡だ。」という言葉を頂きました。
言葉自体は短いのですが…なるほどということが言外に伝わってくるのが飯縄様。
姿を脳裏に送ってくるときはいつも大きな狐の姿で来られる。
「なんで狐なんです?本相のお姿は?」というと「お前のレベルに合わせてやっているんのだ。」と笑って言われる。
この狐さん、分身であるのか、化身なのかは知りませんが本相はめったに知らないけどとても怖い感じです。
ま、それはそれとして・・・そうですよね。・・・臭いものにふたでは奇麗にはならない。
皆さんに伝授した手前自分でも修しておりますが、修法やるにつれて、心の中ではいつも大きな鏡が出てきて躰の真ん中にどんと座る。
心月輪みたい。
これって何?
不浄を嫌わないということはまず不浄をしっかり見て洗うためですね。
でも、ふつう私たちはお勤めしたら「あんなこと思っちゃいけない!」とか「こんなこと思っちゃいけない!」とか心を戒めセーブして拝むでしょう。
准胝独部法のやり方はこのまるきり逆。
准胝様が不浄を嫌うのは体のことだけじゃない。心だって不浄ですから。
でもその心をありのままに見るところからはじめる。だから鏡。
大事なのは大日経の言う「如実知自心」
だから最初から不浄を嫌わない。
煩悩のままの自分,妄念の凡夫であるおのが姿をまず第一に見据えないといけない。
いくら隠しても隠せるもんじゃない。
「横川法語」の心はそのまま准胝独部法の心でもある。
隠す自分の心も隠される自分の心もあさましき妄念でしかないのだから。
まず自分の心に正直であることこそこそ第一です。
こうして欲しい。
ああして欲しい。
こうなりたい。
ああしたい。
欲しい。
惜しい。
憎い。
好きだ。
可愛い。
悲しい。
つらい。
いやだ。
嫌いだ。
虚しい。・・・・・。
そういう自分の心の働きをただ、良くないことと封じ込み、ありのままを見ずして・・・業の掃除はできない。
それは臭いものに蓋でしかない。ただの抑え込み。ごまかし。
決して清らかにならない。
だから、ありのままとはまずジャッジしないで自己を見つめることが大事なんですね。
「それで、自分はいったいどうしたい?」
「それが叶ったら何が得られるの?」
「それって本当ですか?」
「本当に欲しいものは何?」
たとえば「あいつ殺してやりたい!!」なんてのは不浄な心の最たるものだけど、でもだとしたらその人間を殺したとして得られるのは何?
良い悪いの道徳はまずおいて
それって殺さないとダメ?
自然に死んでくれたらもっといい?
あいつが死んだらそれでいいの?
万事かたづくの?
それで自分は何を得られるの?
あなた的には得られるものと人の命は等価ですか。
逆に失うとしたら何?
心ではなにを思っても、願ってもいいんだけど、思いの正体、願いの正体をまずハッキリ見ることが大事だと思う。
それ以外に自己の本当の姿はわからない。
本当の姿がわからないのに直せません。
自分の本当の姿を映すものが「鏡」なんですね。
まず、正直第一。
じっと見つめて念誦するのみ。それだけで変わってきます。
そこは法の威力。
准胝独部法はとてもありがたい法だなと思います。合掌。