それはいろいろありますが
①どこでも修業できて場所や時間がかからない。
②本尊が鏡であるので祭祀に仏像のような空間を要さない。
③浄、不浄をとわないので斎戒沐浴、女性の生理などの配慮が無用である。
④難行ではなく易行なので身体能力、年齢を問わず、難しい知識が要らない。
(護身法を受けなくてもする便法もあります)
⑤功徳が確かで霊験顕著である
という点が挙げられます。色々と専門的にやりたい人はいますが知的好奇心だけでは密教修行はできません。時間も費用も労力も甚大です。
一人前の行者を作るということは本人だけでなく指導阿闍梨にも非常に大きな負担がかかります。単に伝授料などの礼録がもらえるなどということだけで到底できるものではありません。
今までの経験から少なくとも在家からの密教修行は誰もがすべきものでは全くないと思います。
まず自分の生活は全てスタイルを変えてしまうだけの覚悟が最低限でも必要ですし、そうしさえすればできるというものでもないのと思うのです。
このように申せば偉そうに聞こえるかもしれませんがさにあらずです。
まさに千載一遇でこの師匠に出会わなければ私は行者にはなっていませんでしたし、おそらくはなれもしませんでした。
私の場合は師僧の恩は常にもまして非常に大きいものです。
私の劣った資質を補ってあまりある方でした。
私には到底そこまでの指導力はない。
その意味でももっぱら准胝独部法をお伝えしていきたいのです。