金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

あつかえぬ真言


Nさんは白戸師匠にはなくてはならぬ霊的な片腕でした。
でも何かといえば真っ先に例の被害を受けるのも彼女でした。
その意味では実に大変だったと思います。

昔は私も[霊媒なんて…?]と疑って思っていたがそれは簡単にひっくり返されました。
ある時、実家の悶着で新潟から帰ってきたNさん。私は隣の部屋で塔婆を書いていました。
「うまく、連れてこられた?」
「ハイ、おそらくは・・・」
そんな会話が聞こえてくる。

彼女は白戸師匠の言いつけでその実家に展開する霊たちを丸ごと自分の体に吸い寄せてきたのでした。
やがてシャンシャンと錫杖の響きが聞こえだす。
五体加持だ。

はじまってしばらくすると…年輩の女性の声。Nさんの口開きだ。
「○○さんにどうか一日も早く来てもらいたいんです。私はずっと待っている。」とかきくどく物言い。
「だめだ。あなたのとこには○○さんはやれない。」何の話なのかはさっぱり私にはわからない。
でもしゃべっているのは生霊の様だ。つまり生きてる人の念だと話の具合から感じる。
「あくまで、どうしてもというなら比叡山高野山に行ってお坊さんにして、もう二度とそこへは行かないようにしてしまう。」
どうも嫁取りか何かの話らしい。相手は嫁ぎ先のお母さん?

でもその裏には悪霊が暗躍している。

そんな!なんてことを・・・・むごいっ。むごすぎる・・・ウウウ」とすすり泣く声。
これだけ聞いているとこの女性がかわいそうに思うくらいでした。

なんか盗み聞きしているようで申し訳ないのですが大声でやっているので聞こうとしないでも聞こえてくる。

しかも向こうはむこうで聞こえているのは百の承知の様です。
 
でも、やがてその悲しげだったすすり泣きの声はだんだんとクククっという忍び笑いに変わってきている。
「…?!」

そして今度はガラリと声が変わる。「フフフフ、お前、誰だ?よくしってるなあ。俺たちの事。よくしってるなあ。
でも、そんなことしたって無駄だぞ。必ずこっちの世界へ引き込んでやる!俺様がいるからにはな。
シュウウ・・・シュウウ」と聞こえる。このシュウウという擬音らしき声が絶えず出ている。

「蛇か!」

勿論これは霊媒の口がまねて出す音である。本物の蛇の出す音じゃない。
ただ脳はこの音を出すことで自分は蛇だと知らせているわけですね。
何度かやり取りがあった後、師匠はいきなり「お前じゃない。お前などではなく奥の奴を出せ!」というと
蛇は憎々し気に「お前なぞにいうものか!」と毒づく。

いつまでたっても挑発してくるのみのようです。
「そうか。いわないか。どうしてもいわぬならいわんでもよい・・・」

とっさになにか師匠が術をかけたらしく「ウゥ~ム!ウゥ~ム!」という苦しそうな声が聞こえる。
「これでもか?」
「いう…いうぞ。ウウッ。だからやめろっ。やめてくれ~」と言っている。
どうやら金縛りにかけたらしい。
こういう霊媒は変性意識状態なのは催眠と変わらないので、こうした術は普段の意識の状態よりも術は掛かりさえするならずっとよく効くのです。
 
それで蛇霊らしいものがたまらずに何か言おうとした途端!

ポーンとはじき出されてしまい、もっと大きな黒幕が登場。

こっちはもっとずっと、落ち着きはらっている。
どうやら蛇を使ってるのはコイツのようだ。
この悪霊は一方的にさらりと恨み言を述べた後、
「お前。今日のところは引き上げてやるが見ておれよ!●✕▲○○」と何かどこの国の言葉だか呪文わからない言葉を吐いて消えた。

この後は声の調子が一転して清々しく、Nさんの守護霊である戦国時代のさる大名家の姫や守護神である馬頭観音が立ち代わりして現れ、何事か示唆を与えては上がっていったのでした。

「今度は神々?・・・!一体これは何なんだ。」

私にしてみればまるで音声だけの芝居を聞いているようです。
これが私の霊媒の初体験でした。

ガラッと障子が開いて師匠が私の方を向いて「…霊媒祈祷や」という。
Nさんもいつものにこやかな顔に戻っていて「驚いたでしょう。羽田さん。」と笑いかける。

そして私自身がこの時は「これはえらいところにきた。いや、とんでもない世界に足を踏み込んだものだ。」と驚いたものです。
何か狐につままれたような感じでした。
自分は一体どこにいるのだと感じ、改めて呆然自失としたものです。


っとも師匠でも難儀するようなものもないわけではなかったらしい。

ある降霊でNさんに強烈な霊が降霊してきてなかなか退散しない。慈救呪、孔雀呪、五大明王などの強烈な真言を順に唱えるが一向に霊は応えずうまくいかない。

そうしたところがある神呪を唱えたらさっと悪霊が退散した。
「これは凄い力あるわ…」と言われたのでどんな真言ですか?と聞いたら教えてはくれましたが、「でも、あんたには無理だ。これ扱えるだけの行がまだない。唱えても効かないよ。」と言われました。

そうか…世の中には何か強烈な力のある神仏に祈ったり、その呪文を唱えれば即、効果があるものと思っている方がいるけど…
こう言うものは常に自分の徳と行が伴わないと、ただ唱えてもそれだけでは駄目なのだな・・・ということをこのときはじめて私は知りました。
つまりリンクできないと無効なのだ。

このことがあるので拙寺では何々様祀りたいんです。何々法伝授してください…といっても「無理だ。」とか「まだだね。」とかいうわけです。
飯縄明神が完成した時も師匠は拝んでくれた迹、私の方にむき直り
「この方は飯縄修験の本尊であるから町道場に置いておいてちゃいけない。.飯縄の道場に行き安置してそこで拝みなさい。それが行だ。」というアドバイスもありました。
そういうわざわざ山に行くという修行を背景にしないと飯縄様は拝めないということでした。霊威ある神仏は持っているだけじゃダメなのです。
古来在家は「聖天像はもつな!」というのもそれです。
何も供養法ができない身で持っていても意味ない。
剣術を知らないで町人が名刀をただ持っているようなもの。
真価は何も出ない。

ここ2,3年、母が病を得て下山してから閉めてしまい、あまり行かなかったので去年から再開して月一行きお護摩焚いています。
最近はありがたいことに毎回同行してくれる人も出始めています。